昔の農村社会追補
昨日の記事、『農村社会に存続するもの』に付記すること。
住居に関しての付記
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当時も今も都会に限らず農村にも官舎があり、昭和33年(1958年)春まで、我が家でも村から村への移転は、官舎から官舎への転居でもありました。
処が、西滝沢村にも官舎があったのですが、戦後まもなく、村民の反対運動が起きて、官舎に住めなくなったのです。
(注)反対運動の発端は、冬季暖房用薪(まき)の買取りにあったということは聞いたのですが、それ以上の詳細な原因は聞いていません。
そこで県は、平屋を官舎代用として借り上げたのでした。
その平屋に住んだのは、確か、我ら家族で二代目だったと思います。
ここには一年住んで追い出され、西滝沢駅前の神社の境内に転居したのですが、実は、この神社の境内の崩れがかった住居には、その半年前迄の三ヶ月間、我らと同様に、官舎代用住宅から追い出された同級生のT君家族が住んでいたのです。
(画像)鳥居をくぐると左側に住居、正面に社がありましたが今はありません。
(この画像はGoogleです)
つまり、我らの家族が追い出される前に、T君家族も、それまで住んでいた家屋から追い出されて、一時的にこの境内に住んでいたのでした。
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更に思い出したこと。
父の実姉(叔母さん)は、ここ西滝沢村に嫁いでおり、私たちが西滝沢村に行った当時の叔母さんは、いつも和服姿でこの村のオピニオンリーダーでした。
西滝沢での一年目の田植え休みでは、隣家の田植えを母と共に手伝いましたね。
(参考)私の履歴書⑬『初めてお酒に酔った日』
その話を、叔母さんが聞いて、自分のところも手伝って欲しいということで、二年目(小3)の田植え休みでは、母と共に叔母さんの田んぼの田植えを手伝いました。
無論、叔母さん家族(叔母さんとその息子達)、それに近所の小母さんたちと一緒に、田植えをしたのです。尚、叔父さんは、役場は休みでないので不参加。
翌春、我が家族は二年間住んだ西滝沢村を離れることになり、ばたばたしている或る日のこと、叔母さんがやってきました。
その叔母さんのセリフとは・・・・
「(母と私が)田植えをした田んぼだけ、植えた苗が全部枯れた」 と。
いかにも、我らが植えた苗だけが植え方が悪く枯れてしまったような言い方でした。
然し、一枚の田んぼに母と私だけで苗を植えるということはありえないのです。
全員が一斉に植えたのです。
もしも、私たちの植え方が悪いのなら、私たちの植えた苗の列だけが枯れるだけで、田んぼ一枚(300坪)全部が枯れることなどありえない話なのです。
或いは、もしも我らの植え方が悪いのなら、同様に手伝った隣家の田んぼも枯れていたはずです。
それから四年後、本荘市(現、由利本荘市)に住み始めて間もなく、この叔母さんとその子(私と同学年の従兄弟)が来て、「あの時は、植えてもらった稲が全部枯れた」 とまたまた言いだしたのですから・・・・・・・
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更にこの村の不思議なこと。
以前、私のブログでも書きましたが、早春に野ねずみ駆除として、毒団子を畦(あぜ)に蒔くのですが、近所のある農家はそれを事前に知らせないのです。
まさか、毒団子を蒔くと事前に告げたら、野ねずみがそれを知って食べないとでも言いたいのでしょうか。
結果、うちの飼い猫チャペのみならず、近所のニャンコもワンコも死にました。
蒔いた農家は知らん顔!
今では信じられないですね。
(参考)私の履歴書⑮ 我家の猫〈チャペ)の死 〈西滝沢村時代〉
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然し、あと10年15年したら、このような農村地帯の集落の住民は、今の半分以下になりますね。
ましてや、TPPで、田んぼは深い雑草に覆われ、その向こうには微かに廃屋が見える光景になるでしょう。
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(参考まで)
私の履歴書⑪ 児童の才能を伸ばした先生 〈西滝沢村時代〉
私の履歴書⑫ 葡萄ドロに挑戦した昔日 〈西滝沢村時代〉
私の履歴書⑬ 初めてお酒に酔った日 〈西滝沢村時代〉
私の履歴書⑭ 戦後の子供の村社会 〈西滝沢村時代〉
私の履歴書⑮ 我家の猫〈チャペ)の死 〈西滝沢村時代〉
私の履歴書 追記
幼少編 西滝沢小学校時代 親父によく殴られた二年間 〈西滝沢村時代〉
私の履歴書 追記 55年前のキャラメルの景品・卓上ピアノ 〈西滝沢村時代〉