農村社会に存続するもの


山口県周南市金峰(みたけ)で住民5人が殺害された連続殺人・放火事件でちょっと気になったこと。毎日新聞7月27日(土)より。

①保見光成(ほみ・こうせい)容疑者は事件現場の金峰地区郷集落の出身。約7キロ離れた中学校を卒業後に地元を出た。

②父親の介護で古里に戻ったころは、トラブルはなかった。介護を手伝っていた元ホームヘルパーの女性(65)によるとむしろ「いつもありがとうございます」と丁寧にあいさつし、献身的だった。

③だが、7年前に父親が亡くなって以降、評価は変わる。「目つきが変わり、近寄りがたくなった」。自宅に上半身だけのマネキンを置くなどの“奇行”が目立つようになった。

④このころから住民とのトラブルが目立ち始めた。同級生の男性は「向こうから段々離れていった」と話す。

⑤2003年には、今回の事件で殺害された被害者の一人が酒席で保見容疑者を刃物で刺したこともあった。

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私は幼少時代に5つの村で育ちましたから、村社会に溶け込むのは子供なりにでも結構難しかったことは確かですね。

それと、一旦集落を離れた人が、集落に舞い戻ってきた場合、快く迎えないことは確かでした。村人は後ろ指をさしていたように思います。

ヒソヒソと、「ワレ(悪い)ごとして、逃げてきたのだべが?」


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私の小学校低学年時代に過ごしたある村社会での出来事を思い出しましたので以下に記述しておきます。結構厳しかったですよ。

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昭和30年(1955年)前後の秋田県由利郡西滝沢村での話です。
私が小学校二年と三年の二年間過ごした村です。

直根村から西滝沢村に転居するときに、父母は、「西滝沢ではよそ者には住みにくい村だから注意するように」 と忠告されていたのですが、安心していました。

と言うのも、西滝沢には父の姉が嫁いでおり、然も、その旦那が役場の管理職ですから、よもやそんなことはなかろうと思ったのも当然でした。

処が、そんな考えは見事に打ち砕かれました。
西滝沢村の数々の排他的所作の中の代表例としては、

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我ら家族は、前任者の後任として、県が地元の家主と契約した住宅に入居したのですが、住み始めて間もなく、出て行ってくれと言われ、一年で追い出されたのです。

家主の言うことには、この土地には息子夫婦を住まわせるから、住宅を即刻取り壊し、新築するということでした。

然し、当時の農村のこと、借家は他にあるはずもありません。
県が提供したのが、神社の境内に建つ代々の神主が住んでいた空家。
已むなくここに引っ越したのですが、ここでも大変だったのです。

母は、二年間住んだ西滝沢村を去り、下川大内村に転居してからも、西滝沢村での迫害を受けた事柄を来客の都度、話していましたね。

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その話は、後回しにして、その後の取り壊す予定の家はどうなったかというと・・・

二年後の下川大内小学校の5年生の時、西滝沢村(合併で由利町)で写生大会があり、その折、その場所に寄ると、家は空家のまま建っておりました。
それなら何故私達家族にあと1年、貸し続けてくれなかったのか不思議でした。

それから十数年後の昭和45年前後に田舎に車で帰った折、ついでに見に行った時には、確かに家屋は取り壊されていましたが、土台は裸のままでした。

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話を遡って、追い出されて住んだ所が神社の境内の中の元神主の住居。
神社は恐らく15世紀かそれ以前に建立されたもの。

(注)神社は、由利高原鉄道(当時は国鉄矢島線)西滝沢駅から西に進むと突き当たります。そこに神社があったのですが、今は地図から消えていますが。

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当時は、大雨や大風や落雷などで度々停電するのは日常茶飯事でしたが、この家の場合は違っていました。

近所の電気は点いているのに、フューズがバチンと大きな音で切れ、停電するのです。

この駅前集落には電気屋がないので、近くの知人の若者に見てもらいました。


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原因は、電灯を吊り下げている電線を覆っている断熱材のゴムが劣化し、溶けてショートしたからでした。

これが二度。



次が最も深刻な事態でしたね。

深夜、微かにゴムの焦げる臭が漂う。
そのうち、家中に、ゴムの焦げる臭気が漂いました。
この時も、近所の若者に来てもらいました。

若者は、天井裏によじ登りました。


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案の定、10cm程の間隔でゴムで被覆した電線二本が並行して張られているのですが、その被覆したゴムは溶けて、各線は裸の状態となり、更に弛(たる)んでその二本は接触・ショートしていたのでした。

漏電してたんです。
そのままにしておくと火災になったでしょう。

こういう状態の家ですから、父母にとっては、いつ漏電で出火するかと、おちおちして眠ってはいられないというのが実情でしたね。

この村を去って下川大内村で安心して眠れた母の喜びが少しは分かりますね。


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西滝沢村は何故に排他的だったのか、最近、分かりました。
以下は、独断と偏見による推論です。

簡単に言えば、群雄割拠の時代、ここ西滝沢村は度々戦場だったのです。

いわば、この地の争奪戦でもあり、今日の勝者と明日の勝者は違いますから、集落がどちらかに加担でもしたら、明日の集落は焼き討ちされます。

更に江戸時代、この村の吉沢集落は、本荘藩と矢島藩の国境であり、通行人や荷物を調べる番所が置かれていたのです。

ですから、畢竟、この村には、以下の習性がついたものと思われます。
それが歴代、慣習として伝えられていったのでしょう。

「よそ者は早く追い出せ! 泥棒や間者(スパイ)かもしれない。
後日、どんな災難が降りかかるか分からない!」

無論、西滝沢村を実家とし、西滝沢村に住む父の姉の亭主も同じ習性でした。

但し、昨今の西滝沢の状況はこうだとは申しません。
何しろ、我らが去ってから、60年弱経過しているので分かりません。


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(参考)

私のルーツ探索(4)室町時代の渕名は祖先なのか

私の履歴書⑭ 戦後の子供の村社会 (西滝沢村)


由利本荘市・吉沢集落

由利物語(前編・後編)


(お詫び)神戸の住宅改装屋さんの画像をお借りしました。