韓国人だけが持つ特殊な遺伝子


日本国民にとって重要なことは報道せず、プロパガンダ(政治・思想宣伝)と国民総白痴化に徹している日本のマスメディアよりも、寧ろ韓国のマスメディアの方が遥かに自国民の向上を図る報道をしているのではないかと思います。

下記は、私が2005年の韓国紙中央日報の記事をワードで保存したもの。この記事の中で、韓国人は精神分裂の遺伝子を持っていると言うことです。

ですから、韓国人の蛮行・残忍さは後天的ではなく先天的なものと言えます。尚、この遺伝子は何も韓国男性だけでなく、女性も持っているということですね。

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~西洋の人にはなく、韓国人の精神分裂病患者にのみあらわれる遺伝子の変移が、韓国内の研究陣 によって確認された~

蔚山(ウルサン)医大・ソウル峨山(アサン)病院の宋奎暎(ソン・ギュヨン、生化学科)、金昌潤(キム・ チャンウン、精神科)教授らは23日、精神分裂病の患者320人と正常な人379人を対象に、体内の COMT(カテコール-0-メチル基転移酵素)遺伝子の一塩基変異多型(SNP、特定遺伝子の変移)を 調べたところ、72番のアミノ酸が「アラニン」から「リン酸」に変わる場合、精神分裂病の危険性が高まる ことが分かった、と発表した。 

今回の研究結果は、遺伝体研究分野の米学術誌「ヒューマンジェナティックス」(Human Genetics)の 今年1月号に掲載された。 
ソース:中央日報 
http://japanese.joins.com/html/2005/0123/20050123162933400.html

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下記URLは、前回の記事 【米軍と韓国軍の共通点『残忍』『強姦』】 です。
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この記事の続編は下記の通りです。
悲惨で読むに耐えないのですが、事実は事実として。


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(前頁より)

果して、あなたたちに真の反省はあるのか 


私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ. 

韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによってベトナム戦に軍事的な介入を始めた. 

以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した. 

この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した. 
しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)をおさめもした

. 我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである. 
それも、公式的な統計上でだけ! 

そして戦争は終わった. しかし、終戦24年を迎える、この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている. 

韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い. 
20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ. 

加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、私たちに未来はないだろう. たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても. 

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている. 
果して、あなたたちに真の反省はあるのか. 


ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員 


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次は米国紙でも同様に報道された日本版です。

米軍も残忍なことをしているのですが、敢えて韓国軍の蛮行を報道したのは、自国の軍隊の蛮行から米国民の目をそらすためでしょう。

ニューズウィーク日本版 2000年4月12日 P24
WORLD AFFAIRS◇証言 

Apocalypse Then

私の村は地獄になった

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の
被害者たちが真実を語りはじめた
今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。

 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。

 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。

 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。

 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。

 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。

 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。

 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。

 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。

 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。

 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。

 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。

 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。

 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。

 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」

 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。

 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。

チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。

 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」

 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。

 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。

 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」

 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。

 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。

 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。

「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。

 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。

 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。

だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。

だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。

 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。

 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。

「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」

 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。


ベトナム戦争での米軍の蛮行証言(後半) 2017/1/27(金)

●米国は米軍の実態を報道せよ 2013.05.18