京都・滋賀のペッパー警部


私が20歳代前半の四年間うろうろした京都市下京区エリアの通り名

北から南へは、五条通り⇒楊梅通り(やまもも小路)⇒六条通り⇒花屋町通り⇒正面通り⇒北小路通り⇒七条通

西から東へは、堀川通油小路通り⇒東中筋通西洞院通り⇒若宮通り⇒新町通り (⇒室町通り⇒諏訪町通り⇒烏丸通り)

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さて本題
軽蔑される内容かも。

私の履歴書20歳代 追加版

1966年(昭和41年)頃のこと

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西洞院正面通り西南角に小さな公園があり、その西側の東中筋を上がった所に、京都南病院(現在名 第二南診療所)がありました。注)今も健在。右の地図①

皆さん、この病院に行くのが大好きで、クシャミ一発だけで行きました。

18歳のタカシに19歳のバタ、31歳独身の吉田、40歳過ぎ独身の木迫(キサコ)、所帯持ちで子供が生まれたばかりの岡崎。

注)私はこの病院に罹ったことがない。

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彼らが何故執着するかというと、この病院の看護婦は全員可愛いか、又は美人だったからです。

「京都の可愛い娘(こ)は1に共産党。2が創価学会」と言われていた時代です。

当時、この病院も、ご多分に漏れず共産党で名を馳せていました。

こんな彼等ですから、油小路五条下るにある喫茶店『アスカ』に超美人のウエイトレスが入ったのを見逃すはずはありません。注)上の地図②

「ものすごいべっぴんさん!」と言ってびわ競艇の無い日は大騒ぎして連れ立って通っていました。尚、この喫茶店は、ご主人の退職金で町家を改造したもの。

このウエイトレスさんは、近所に親子で住んでいて、店のご主人が顔見知りのその母親に頼んで手伝いにきてもらっているもの。

それから暫くして、新町七条下る西側(移転前の下京消防署の斜向かいで北村医院の南隣)に三階建てのガラス張りの白いビルが建ち、その二階の店内も白一色の喫茶店が開店した時、連中は大騒ぎをして通いました。 注)上の地図③

でもこの店のウエイトレスは愛想が悪いと言って直ぐに行かなくなりました。愛想も悪いはず。この時は、加山雄三の『お嫁においで』の歌が流行した夏。

店内にはこの歌も含めて加山雄三の歌が流れるものですから、彼らは一緒に歌うのです。それに彼らは熊本弁で大声を出したり踊りますからはた迷惑。

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後、足が遠くなっていた喫茶『アスカ』に、「最新型のジュークボックスが入った」ということで、連中、50円玉を何個も持って再度通いました。

私もその当時は、連中等に誘われて二度『アスカ』に入りました。

店内は薄暗く、正面のジュークボックスだけは青く光るから心が踊る。

彼らはそれに軽く手をかけ、奏でる曲に合わせて手と身体を揺らす。デスコ曲では踊る。

新型機種に入れ替わり、レコードはSP盤からシングル盤へ 45回転
内蔵枚数も倍になり、両面演奏、100枚で200曲に。50円玉専用。

連中、やがて、それにも飽きて、その後は離散状態。

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その頃私は、碁を全く知らないレベルでしたが、80歳前後で警察官上がりの黒田さんと杉本さんが打つ碁を横で観ていました。

私も碁を強くなろうと思い、碁の基本書と詰碁の本を買い、それをじっくり読むために、それまで二度ほどしか入ったことのない喫茶『アスカ』に通い始めました。

一週間のうち4日程ですね。コーヒー一杯で午後から夕方まで滞留したのは。詰碁の本は、何度繰り返し読んでも飽きることはないのです。
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そのうち店主の奥方ウエイトレス洋子(19歳)さんとも親しくなりました。

洋子さんは、色白、細面で、いつもファンション誌から抜け出したような髪と服装。

注)イメージとしては、右の画像ですね。結構似ている。
だけどこんな色気ではなく、透き通るような清楚な色気でした。

彼女の友人の話によると、彼女の小奇麗なお母さんのいつもの口癖は、ファッション誌やTVを見ながら 「洋子の方が遥かに美人」。それ程のレベルですから、想像はつくでしょう。

懇意になると、洋子さんにいつもカウンター席に呼ばれ、洋子さんと並んで座ることになりました。といっても、私はずっと囲碁の本とにらめっこですが。

半年後、私の囲碁の腕前も上達し、自称初段の黒田の爺さんに5目を置かせるまでになった頃、夕方から店に入るウエイトレスに園子さんが入ってきました。

園子さんは京都府綾部が実家で、近所の町家に下宿する短大生のアルバイト。育ちの良さそうな丸ぽちゃの可愛いお嬢さん。

ここは住宅地で夕方の客は皆無に近いですから、園子さんはいつも詰碁の本を読んでいる私の横にずっと立っていたのです。

洋子さんは、「私の彼女が園子さん」だと思い、園子さんは「私の彼女が洋子さん」だと思っていたのですから、それが分かった時には皆大笑いしました。

ある日、私が喫茶店に入り浸りだという噂と、もう一つのよからぬ噂を聞いた知人の京都市役所OBで白髪の海保(かいほう)さんが、私に紹介したい人がいるというのです。

「だれですか? 男ですか? 女ですか?」 と聞いても 「会ってから」 という。指定場所は何故か件(くだん)の喫茶店アスカ。

その夜、指定時間にアスカに入りますと、海保さんと女性の背中が見えました。ボックスに座ってびっくり。

同席していたのは、顔見知りの女性。
年齢は16歳・・・・・・・・

海保さんは、我ら二人を引き合わせると「あとは二人で」と言い残して消えました。海保さんは私に 「交際するならこういう女性とせよ」と言いたかったのでしょう。

この夜は、洋子さんが店の中にいて、洋子さんは冷やかし気味に 「どうぞ、水無ちゃん、ごゆるりと」 と言ってコーヒーを持ってきました。

あっと言う間に喫茶店閉店時間が来て、二人で外に出ました。

初夏だったと思います。
暑くもない、寒くもない、湿気のない無風の心地よい夜でした。

若い娘(こ)らしい色々の質問が出てきました。なる程、洋子さんとの関係とか、あることないことのうわさ話の一つずつを。

然も細部に亘ったもの。
私、訴追されているようなもの。

それに答えながらぶらりぶらりとあてどもなく歩いたのです。
あの連中に見られたらまずいと思い、広い通りを避けて路地を右や左と。
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注)右(南方)が東本願寺北門、道路は花屋町通り、向こう(東方)の山が東山。花屋町の由来は、西本願寺に花を手向ける生花商が多かった故との説。

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             注)東本願寺北門の正面 地図④

お東さん(東本願寺)の北門に差し掛かったときには午後11時半。
僅か直線距離で500mを左右曲折し続け、1時間半かけて歩いたことになる。

この花屋町通りにある北門界隈は当時街灯がなく真っ暗に近い。ここに来た時にはもう彼女の質問は切れて無言で歩いていました。

北門の前でたたずみ、夜空を見上げました。
ものごとの流れとでも言いましょうか。
それから我らは無言で向き合いました。

暗闇の中、色白の娘(こ)ってより一層可愛く見えます。
私は彼女をぐいと引き寄せ、抱きしめました。

そして口づけしたんです。
彼女、震えていたんです。
更に強く抱きしめ、熱きデープキッス・・・・・・

その時、2m程の近距離で懐中電灯がピカリ。

東本願寺の夜回りさん? と思ったら、逆光の懐中電灯の向こうに辛うじて見えるのは京都府警の帽子のワッペンが二つ。

「君たち、ここで何をしている?」
「はぁ」
「君の名前は?」
「水無瀬よりですが」
「君の住所は?」
「はぁ、西洞院のそこの〇〇さんとこですが」
「そちらの女性は?」
(省略)
「この辺は暗くて危ないからもう帰りなさい」

この警官二名、物陰から私たちを見ていたのですね。


その後、京都府警には、夜、デートしているとよく声をかけられました。よく言えば、仕事熱心。悪く言えば〇バ□メ。

滋賀県警ものぞき見趣味

左京区北白川仕伏町から比叡山経由で滋賀の近江神宮までの山中越え(志賀越道)を走り、比叡山ドライブウェイの入口を横目で見ながら、大津側へほどなく下った所に展望のいい馬ヶ瀬ドライブイン(?)の駐車場があったのです。

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深夜このドライブインが閉店してからのここの駐車場から見下ろす浜大津方面の夜景がいいのです。

道南・函館山の左端の一片の雰囲気。特に、琵琶湖の花火大会の時には最高でしょう。

(注)右の画像の借用先

ある女性が夜景を見たいと言うので、深夜、峠を飛ばし、例の駐車場へ。辛うじて1台だけのスペースが空いていたのでそこに駐車。もう皆さん、夜景は見終わったとみえて、車の中でおしゃべり???

街灯は無かったのですから、何台車が駐車していようが暗闇に近い。我らも夜景を観てから車の中へ。

そこで彼女とは初めての口づけ。
リクライニングを倒し、更に熱き口づけ。

と、誰かが覗いている。
ドアガラスに顔をくっつけて。
出歯亀!

気づかれたのを知った彼らは懐中電灯を我らにかざす。
滋賀県警の二名。

せっかくいいところなのに・・・・・・・

              ★
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1976年(昭和51年)ピンクレディーの『ペッパー警部
~♪~わたしたちこれからいいところ~♪~
を聴いたときには笑いました。


まさにその通り、いいとこで邪魔をする。
だけどこの歌、我らより10年遅れていた!

                        くだらん記事でした・・・・


              ★

余談1)当時、京都の夜景というと東山ドライブウェイの将軍塚展望台でした。

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当時は深夜も走行OKでしたが、暫くしてから暴走族対策で深夜から乗り入れ禁止になった後は、警官はめった来なかったようです。尚、当時は有料でしたが、今は無料になっています。
(夜景画像の借用先)


余談2)
洛東の高台寺は秀吉の妻(北政所)ねねで有名ですが、ねねは高台寺に住んだことはないのです。死後、祀られたもの。

高台寺北政所高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院。
秀吉と北政所を祀る霊廟。

尚、ねねの住んでいたのは洛中で、御所の南側。
現在の仙洞御所の地。
(地図)

                            おしまい

注)2013年7月3日、喫茶「アスカ」の上記地図での場所③を当初の場所より北に300m程移動修正しております。7月1日に、ようやくその場所を確定出来たのです。但し、その時は更地になっていました。凡そ40年という時の経過です。


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