米国は米軍の『レイプ』の実態を報道せよ
マスコミで目立つために、これぞとばかりに橋下市長が発言しましたね。
任意な記者質問への回答でのこととし、事前に練られた回答ではないと仰っていますが、私は、記者とのデキレースじゃないかと思いますよ。
それはそれとして、
南京大虐殺のでっち上げは、自分たちの大虐殺(沖縄や日本各地の都市の一般市民を大虐殺、それに広島・長崎への原爆投下での大虐殺)から目をそらすための。
日本の従軍慰安婦強制連行説も、自分たちの蛮行から目をそらさすため。
但し、男と女の一対一の取引なら、自由恋愛の範疇ですからOK!
従軍慰安婦はダメだが、強姦はOK???
《これが進駐軍の実態》
1945年(昭和20年)8月30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した。
9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された。9月5日には神奈川県の女子高校が休校した。
武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2~300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された。
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【命令された娯楽施設の怪】より一部抜粋
日本の終戦直後、私は東京都の渉外部長で、占領軍司令部の命令に、“サービス”を提供する役割を課された。戦勝者の命令は絶対である。
僅か一、二週間の間に占領軍の兵隊のためにワシントン・ハイツ等という名の宿舎の建設が命令され、将校たちのためには、洋式のトイレの住宅を接収し、提供した。敗戦の年のクリスマス、司令部の将校から呼ばれて“ヨシワラ”の状態の報告を命ぜられた。
もちろん、その地区は焦土と化していた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、“女性”を集めろということだった。命令は英語で“レクリエーション・センター”の設置である。最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。旧“ヨシワラ”のそれであった。
敗戦直後の東京の行政は、女・子供はできるだけ地方に分散するようにという命令が出され、占領軍の兵隊のための宿舎をつくる労力さえも不足の状態だった。
しかも外国の兵隊は、鬼畜とさえ教えたのを、改めてそのようなサービスを提供するなどできるものではなかった。
しかし、市民の中には、食べ物も少なく、中にはチョコレート一個で身体を売るような話まで広がっている。
やむを得ず焼け残った“地区”の人々に、文字通り、食料を支給すると約束してバラック建ての“サービス・センター”に来てもらった。
その理由として、日本の“一般の女性の操”を守るためにといって頭を下げた。こんな犠牲を強いた私自身が“人権”などという言葉を口になど出せるものではないと反省している。
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話は一気に飛びますが、
《女性兵士は男性兵士を慰安夫に、男性兵士は女性兵士を慰安婦に》
米大統領の諮問機関である「女性の軍務委員会」の調査によると、参戦した男女混成部隊の兵士4442人に対するアンケート調査で、64%が「前線で異性兵士と何らかの性関係があった」と回答した。
その頃、これまで中絶が事実上禁止されていた米軍関係の病院でも中絶が出来るようになったという。(毎日新聞1992.10.4)
佐藤和秀「女性兵士を男性兵士は慰安婦にし、男性兵士を女性兵士は慰安婦にし…いくら戦線で遊んでも軍が中絶で後始末を付けてくれる」(『正論』1993.12号)と書いたような情景となった。(慰安婦と戦場の性 秦郁彦)
私のブログ記事『沖縄での米軍事件の原因は何か』 2012.11.26
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上記、男女兵士間の内容を裏付ける湾岸戦争の日本での米軍
毎年日米共同訓練と称して自衛隊と米軍が指揮所訓練(コンピュータを使って地図上で部隊の運用を訓練する)と実働訓練(実部隊を使っての戦闘訓練)を実施している。
特に駐屯地内の建物に寝泊りをする指揮所訓練にはたくさんの米軍女性兵士が参加する。自衛隊の衛生隊員からこんな話を聞いたことがある。
米軍の衛生兵が毎日コンドームを米兵に配っていたと。
規律厳正な日本の隊員には考えられないことであるが、湾岸戦争の状況を知ったなら納得せざるを得ない。
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《アメリカ軍の他国での蛮行》
アメリカ軍は1945年5月8日時点で、160万人の兵士がドイツに駐留していた。
ハイデルベルクの米軍司令部は、45年3月から4月の間に裁判所で487件の強姦が扱われたとしている。
ヨーロッパの戦場での『米軍のレイプ』の実態
被害者 14000人(内、ドイツ人女性 11040人)と言われている。
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ベトナム戦争の初めのころに駐留していたフランス軍は植民地軍の伝統的慣習になっていた「移動慰安所」を開設、情報漏れを恐れてベトナム女性は使わずに、北アフリカ出身者を採用していた。
後を引き継いだ米軍は各師団のキャンプと周辺に「公認の軍用売春宿」を設置した。それは『レクリェーション・センター』と称してバーとバンド付きで個室付きで60人のベトナム女性が1回約2ドルでサービスしていた。
後を引き継いだ米軍は各師団のキャンプと周辺に「公認の軍用売春宿」を設置した。それは『レクリェーション・センター』と称してバーとバンド付きで個室付きで60人のベトナム女性が1回約2ドルでサービスしていた。
「鉄条網で囲まれた公認の軍用売春宿では60人のベトナム女性が住み込み…1日に8人から10人をこなす。料金は500ピアストルで、女の手取りは200ピアストル、残りは経営者が取った。
彼女たちを集めたのは地方のボスでペンタゴンも黙認、
女たちは週ごとに軍医の検診を受け…」とある。
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米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この額域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。
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《各国で慰安所が出来た原因》
時は昭和12年(1937年)支那事変(第2次上海事変、南京事件)の頃にあまりにも性病が流行し、性管理をする必要性があった。又敵の女性スパイに対する防諜(スパイ防止)の為、そして民間人に対するレイプの防止等から必要性が大きくなった。
実は日本軍に対する慰安所の開設は第1次上海事変の時といわれているが、軍隊の駐留が短かったためあまり一般的ではなかった。
独・英・仏・露それぞれの国は軍隊に対する性管理をしていた。
統計によると、それは戦病死よりも梅毒等の性病で戦闘不能になる兵士が多かったからである。
独・英・仏・露それぞれの国は軍隊に対する性管理をしていた。
統計によると、それは戦病死よりも梅毒等の性病で戦闘不能になる兵士が多かったからである。
従って欧米諸国は相手になる女性の募集・検査・慰安所の運営のすべてを実施した。特にドイツについてはドイツの国民性をそのまま出して、合理的・統計的に国家が管理していたが、日本については国家が管理することはなかった。
名誉に係わる問題なのではっきり言っておくが、日本軍の立場は業者に任せたが、業者が管理する女性の性病検査や慰安所開設等に便宜を図った。
しかしながら直接管理して軍隊が利益追求をしたわけではなかった。県の庁舎・市の庁舎・病院等または駐屯地の委託売店と庁舎管理について想像してくれれば理解出来ると思う。
日本は外国の軍隊のように『下半身の問題を世間に晒す様な事はしない。それがせめてもの武士の情けだ』という配慮があったのです。
本質的にはこういう事情があった事をまずは理解してもらいたい。
日本は外国の軍隊のように『下半身の問題を世間に晒す様な事はしない。それがせめてもの武士の情けだ』という配慮があったのです。
本質的にはこういう事情があった事をまずは理解してもらいたい。
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《第二次世界大戦の時代の他国の状況》
〇イギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。
1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹のカルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで見られたという
(参考・引用サイト)