本社のアフターファイブとは
私の履歴書・407
話を再度札幌から本社に転勤した1991年2月に戻します。
本社着任早々、てぐすね引いていたのは麻雀キチガイ連中。(失礼!)
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家族を伴っての転勤の場合、転勤手当てが基本給の一ヶ月分出ます。
無論、引越し費用や家族の移動旅費、新しい住居にかかる費用などは全額会社負担ですから臨時ボーナスが出たようなものでした。
その転勤手当てを狙って麻雀の誘いが来るのです。
最初に声をかけられたのは専務からでした。
彼の奥さんは京都・東山のあの有名な料理旅館のお嬢さん。
断るわけにもいかず、その麻雀のメンバーに入ったのです。
当時はインフレルールで色々なルールがありました。
家電メーカールールとか、公社ルールとかですね。
どんなルールで麻雀をするのかは、その場の高役職者の意向で決まるのが通例。
それはともかく、広島の二年間弱と札幌の四年間はまともな麻雀らしきことはしていませんでしたから七年ぶり。
それに初めてのルールですから戸惑うばかりで相手の手が見えない。
結局、レートは点5なのに一晩で五万円ほど負けましたね。
注)レート点5とは、掛け金が千点で50円。
「水無瀬課長は麻雀に弱い」という噂が立ち、あちこちからのお誘いが来ます。
何回かして十万円ほど負けました。
然し、間も無く本来の自我を取り戻し、以後、連勝街道。
とたん、お誘いの声は無くなりました。現金なもの。
但し、メンバーが足りない時のみ誘われました。
皆さん、午後四時頃から社内電話で密かに麻雀のメンバー集めですね。
二箇所の雀荘で毎日雀卓を囲うのは五卓前後でした。
まあ、本社勤務と称するところのアフターファイブとは祇園に行くかそれとも麻雀をするかで、まともな時間に帰宅することは皆無でしたね。
着任三年目のある花金の夕方のこと。
T銀行からの出向社員が私の部下になる前のことです。
メンテナンス子会社統括事業部小野部長(仮称)から、メンテナンス本部特別会議に一度顔を出したらどうかという誘いを受けました。
その会議の場所とは近くのうどん屋の小上がりで、数人の社員がビールのジョッキ片手に何かの新聞らしきものを広げ、個々頭をひねっていました。
近づいてよく見ると、それは競馬の予想紙でした。
大笑いでしたね。
そして翌日の土曜日、原則的には休日なのですが、地方の社員が故障を修理出来ない場合や何等かのトラブルで本社判断を必要とする事態に備えて、本社メンテナンス事業部の数人と我等本社管理職は出勤していました。
そして昼休み時間に本社メンテナンス事業部の若手が皆のレース毎予想した馬券を買いに淀の京都競馬場まで走るのでした。
それからですね、競馬を始めたのは。
際立っていたのは私より十歳年長のメンテナンス事業部の小野部長ですね。
彼は毎月50万円前後勝ち続けていました。
G1レースの予想では、一着から五着までズバリ当てることが度々でした。
競馬は一種の記憶力勝負。彼の記憶力は半端じゃなかったのです。
(参考)彼の父親は東京帝国大学卒の元大蔵官僚で、彼の三人の兄弟の二人とも東大卒。
なのに彼だけが同志社大学卒。でも親の遺伝子を受け継いでいますから記憶力は素晴らしい。
その彼が太秦社長に呼ばれて二者択一を迫られました。1995年60歳の時。
「会社をとるか、それとも競馬をとるか」 と。
彼は会社を選択し、以後、競馬をピタリと辞め理事になりました。
以後取締役となり彼が会社役員を退任したのが2000年の65歳の時。
競馬を再開したのは競馬を辞めてから七年後の2002年。67歳。
今度は私が彼を誘ったからでした。
でも、彼はもう昔のようなズバリの予想は出来ませんね。
七年という歳月は彼の競馬の記憶素子を劣化させてしまったのです。
脳細胞に限らず、ランニングでも暫らくお休みしてから走ると息切れします。
私の肩の場合、まともにボールを投げることが出来なくなりました。
人間の身体は、使わないと退化しますね。尻尾(しっぽ)のように。
注)彼とのことは私のブログ「ほっこり京都人」に書いていましたね。
ほっこり京都人(1)遊郭の街だった京都
ほっこり京都人(13)いよいよ、ほっこりして来ましたね