40年前、20年前のタイムカプセルを開ける

 
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        私の履歴書 379
 
2011年4月、妻が押入れのダンボール箱を全部取り出し、部屋に積み上げました。20個ほどですね。
 
それは古いものでは40年前から一度も開けたことの無いものも幾つかありました。
 
そのダンボール箱の何個かは、20年前に札幌からの転勤の時閉じたままのも。
 
何れもタイムカプセルですね。
私はそれにはノータッチにしました。
 
私がそのカプセルの中を見始めたら何年経っても終らないでしょう。
取捨選択は一切妻に任せましたら、妻は二ヶ月かかりましたね。
 
 
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その中で、札幌在職四年間の分で妻が残してくれたのは、札幌着任の年の1987年から1991年のダイアリー四冊のみ。
 
1989年分の一冊が抜けています。
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恐らくこの年は、貰い物のA4ダイアリーを使った記憶がありますから、ダイアリーと思わずに捨ててしまったのかもしれませんね。
 
 
札幌着任の1987年1月5日からめくってみました。
 
毎日の記載があるからと言っても、確かにその事実はあったのだが、具体的に当時の映像としての記憶再生はなかなか出来ないものですね。
 
メリットの一つは、一部の忘れていた部下社員の氏名が全て分かったこと。
特に着任の春に採用した鎌田瞳(仮名)さんの実名があゆみさんと分かり感激。
 
 
それから、中標津の素敵な小母さまの住所と商店名も。
でも、残念にも、その商店、今は無いようです。
 
名寄商業組合の事務長兼婦人部長のお名前は本田百合子さん。
 
私は彼女に「あなたが札幌で生まれ育ったなら、ひとかどの人物になったでしょうね」と言った記憶があります。
私の尊敬する人でした。今は75歳前後かも。
 
 
然し、毎月毎月、飛行機にはよく乗ったものです。
千歳空港や丘珠空港から道内各空港(函館・稚内・釧路・女満別紋別)へは無論のこと、仙台空港伊丹空港へ。
 
着任三年目からは名古屋空港羽田空港へもです。
ですから毎月10日~15日は飛行機に乗っていました。
 
その合間に札幌での仕事をしたと言っても過言ではないでしょう。
 
 
この札幌四年間を記憶だけを頼りとして書いてきたのですが、書いてきたことの確認のためにダイアリーを見ますと、日時の若干のズレと、二つの事が一つのこととなったりしていましたね。
それもそうです。毎月道内隈なく四年間出張した訳ですから已むを得ません。
 
記事に書いたそれらの日時や事柄を若干訂正しながら他の箇所を見ますと、少しずつ思い出すこともありましたね。
 
次回は、新たに思い出したことを記事に書こうと思います。
 
 
尚、どうしてそんなにダンボールに書類が多かったのかと申しますと、会社では5年前10年前のことを問われることが時にはあったからです。
身辺を常にきれいにしておけという一種の啓蒙だったのでしょう。