奥様に郵送した主人の通信簿

 
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    私の履歴書370     
 
やはり転勤か。(1991年1月)
先ずは頭をよぎったのは世子と亜子の顔。
 
二人とも彼氏がいるし、亜子の場合はこの正月に婚約した。
 
営業で沢山の男性との面談や夜の接待を通じ、一見しただけで男を峻別する能力ができている彼女等は、直ぐに新任福地所長を見破るだろう。
 
果たして彼女らの堪忍袋は何ヶ月もつやら。半年かな?
それを防ぐ為に吉田常務は、全国女性営業社員の管轄を私に委ねるのかも。
 
 
色々と脳裏をよぎりました。
 
旭川の斎木君の場合。
主任心得→主任→係長心得→係長と昇進させた。
 
今後の四ヶ月間の合計が黒字なら所長心得に推挙すると本人に言明。
だが、その期間の最後の月に大幅な赤字で期間合計も赤字。
所長心得に推挙出来ず。心残り。
 
 
では、札幌の男性社員達の場合はどうであろうか。
 
メンテナンス部署の社員達には問題が無い。
よく働き、他方、よく学び、各技術資格獲得に邁進。
流石20歳代。勢いが違う。
 
 
札幌の男性営業員達はどうであろうか。
特に魚住君と草野君の二人の主任は?
 
1989年以降急激なマーケットサイズ(市場規模)の拡大と身についた戦略・戦術思考で、ある程度の数字は上る。
 
二人の主任の実績としては、食品メーカー買上げ分は目標達成だが、小売店への販売分の達成率は60%前後。
個人全体としての目標達成率は90%前後。それで満足している。
 
彼等を主任から係長に昇進させるためには、もう一皮剥(む)けてもらわなければならない。
 
世子係長と斎木係長の場合、毅然として部下に冷静な指示が出来る。
それに、部下以上に動き、数字を上げる。当にコマンド軍曹。
彼等主任も動くものの、共通しているのがお人好し。
 
人の上に立つと言う事は、配下社員とその家族の生活にも責任を負うと言う事。
責任とはどういうものか?それを彼等に言葉だけではなくどう分からせるか?
 
そこで考え出したのが、全道所帯持ちの男性社員の自宅に通信簿の郵送。
葉書に、夫の項目ごと達成率のグラフを描く。それにコメントを添えて。
 
発送したのが1990年11月初めですから、転勤する僅か3ヶ月前。
一部の部下の不評をかうのは止むを得ないと思いつゝ。
 
札幌以外の支所長からは、表現が違えど妻に叱咤激励されたとの報告。
他方、札幌の所帯持ち営業社員三名には、不満の声が燻り(くすぶり)ました。
予想通り彼等二名も含む。
 
その声は、札幌森口総務係長経由→本社管理部比良部長→吉田常務へ。
 
11月下旬、思い余った札幌の彼等は、揃って私に言いにきました。
「あの葉書を止めてもらえませんか。あれを妻が見て、何と出来の悪い亭主と思い、ガックリきています」
「我家の場合、小学低学年の坊主に馬鹿にされました」
 
私の回答
「近い将来、人の上に立った場合、部下の赤ん坊のミルク代にも責任を負わなければならないということを知ってもらう為ですよ」
 
それでも納得出来ないようでしたね。
未だ理解は無理か。
 
翌月12月本社支店長会議終了後、吉田本部長室に呼ばれました。
 
同席していた比良管理部長が言いました。
「水無瀬君の通信簿はやり過ぎである。即刻、中止しなさい」
 
私 「今の販売数字の大半は、実質的に卸販売ではないですか?
このまま数年続くと、使い物にならない社員だらけとなります」
 
吉田常務 「ともかく、他の方法を考えてくれ給え」
 
当時、日本企業全体は新卒者を金の卵と称して甘やかしていた時代。
一般社員でも辞められたら困るから甘やかす。
社員一人辞めさせたら、上司の責任問題になりかねないムードでしたね。
 
さてさて、
 
この魚住君と草野君二名の心のわだかまりが消えないうちの転勤命令でした。
各奥様の澱(よど)んだ心を短期間で回復させる手は見つからず。
 
あれやこれやと考えているうちに、千歳空港上空でした。
 
 
 
尚、この件で吉田常務が改めて詫びてきたのが、それから三年後。
「水無瀬課長、あの時、君の考えは正しかった」 と。
 
三年後の1994年前後といえば、中堅営業社員の弱体化が目立ち始めた頃ですね。
それと、1989年前後に採用した四大新卒男子社員200名は全く使い物にならないことが分かり、大半の企業と同様にその処遇で頭を悩ました頃でもありました。