老いても健康の秘訣はメリハリのある生き方

 
 
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     私の履歴書・344 
 
私の札幌二年目のことですね。
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父が亡くなってから6年後の1988年9月初めのこと。
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母は体力の衰えで、そろそろ田舎に一人で住むのは限界が来たと悟りました。
そこで我等と札幌で短期間同居することになりました。
 
と言っても母は余り乗り気ではありませんでした。
 
その10年前の7月に、北海道バスツアーで洞爺湖のホテルに到着し、バスから降りる時に転んで骨折したからです。
 
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注1)上の写真は、藻岩山から観た夜景。写真右下の(+)をクリックすると拡大します。
 
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当初は精神的にも肉体的にも弱々しい母でしたが、二日に一度、夕食後1時間ほど孫娘と孫息子とのトランプゲームで活気を取り戻しました。
 
イメージ 4それも主に「大富豪ゲーム」でしたね。
母の一喜一憂の笑い声が響きます。
 
それと、週にニ三度、妻と二人でデパートと札幌市内巡り。
 
夜は偶に家族ですすきのに出かけ夕食。
みるみる内に、本当に元気になりました。
 
10月、母は田舎に帰っていきました。
 
秋田の雪の季節はもう直ぐ。
帰って雪囲いをしなければなりません。
 
それから三年後、
 
1991年早春、私達家族が札幌から高槻市へ。そして夏に今の住居の大阪府島本町に越して間も無くの秋、母が来ました。
 
同居したらどうだろうかとの様子見も兼ねて。
未だ二人の子供が高校1年と小学6年の時ですね。
 
夫々に一人部屋を与えなきゃならない年齢。
3LDKでは無理でした。
 
そこで近くのマンションを買うか、それとも借りるかでした。
母と見て回ったのですが、も一つ乗り気ではない。
 
一番問題にしたのが、病院の事。この町には病院が一つだけ。
然し病院を見て「この病院では死にたくない」
 
それでは、阪急電車で「水無瀬駅」から5分の「高槻市駅」下車徒歩3分で「大阪医科大学付属病院(935床)」を案内。
 
「大学付属病院となると、研究材料にされる。
変な薬を飲まされ実験台にされたり、死体を切り刻まれたくはない」
 
じゃ、近くとなるとJR高槻駅から徒歩7分の「(医)愛仁会高槻病院(477床)」となると、当時、JR島本駅は無かったから通えない。日赤となると、バスに乗って高槻の山の中腹ですから遠い。
 
他にも問題がありました。
墓の問題、母の親戚との距離、この町に溶け込めるかの問題等。
 
田舎の町の一軒家で何十年も田舎社会の係わりの中で生きてきた母にとって、田舎からは去り難いものでした。
 
以後、母は大腸がんで亡くなる2001年(平成13 享年88)暮れまで、田舎を離れませんでした。
 
尚、札幌から帰ってからの母は、それまでの生活の在り方を反省し、三度の食事をまともに摂るように務め、更にメリハリのある生き方をしましたね。
 
注2)母の得意は、美空ひばりさんの歌でした。
注3)藻岩山からの夜景の写真は、許可を頂いて掲載しております。