当時の教員の子の精神的労苦

イメージ 1
.
若者と面接をし、採否を決めるのは難しい事ですね。
.
その人の一生を左右しますから。
.
更に、採用してから如何に育てて行くのか。
.
人、夫々育った環境や学んだ事が違いますから。

私の履歴書・210

1985年初秋 電話が掛かって来ました。
「社員募集の広告を見たのですが、未だ募集していますか?」

初夏に広告した募集を見たようです。
面接することにしました。

休日の土曜日の午後、この日もいいお天気でしたね。
浅黒のひょろりとした中肉中背。名前は合田君(仮称)

履歴書を拝見。
山口県の広島に近い町に在住の28歳。
何故か転職歴は結構ある。結婚して1年と少々。

色々話を聞きますと、父親は小学校の校長先生。母親も先生。
両親が先生で子供が高卒とは珍しい。大半は大卒。

乗ってきた車に誰かが乗っています。
「誰? あの運転席の人は?」
「女房です」
「それじゃ、奥さんにも入ってもらって」

面接は、奥さんも交えて行いました。
奥さんが運転して面接に来るとは、珍しい現象ですから。

以下は、彼の奥さんと私の会話の一部です。

「奥さん、ご主人、社会への適合が上手ではないですね」
「実は、そうなのです」

「教員の子によくある現象ですよ」
「どうしてですか?」

「教員の職業の親は、学校で子供を教えるように、1+1=2の育て方をしますからね。常に答は正解の一つだけです」
「そう言われれば何となく分かるような気がします。私の母も教員ですから」

「教員は実社会の体験が無い事と、学校で子供達に教える立場でもありますから、自分の子供に、実社会の1+1=3or0と教えることが出来ないのです」
「だから、人と上手くいかなのですか?」

「人や社会は、正義に基づくべきとの基本思考ですね。客観的物の見方が出来ない。だから汚れているのが赦せないのです」
「どうなりますか?」

「極端な例になりますが、連合赤軍の浅間山荘事件をご存知ですか?」
「小学校の高学年の頃だったと思います」

「あの事件のメンバー5人の半数以上の親が教員だったはず。あさま山荘事件の前に彼等は山岳ベース事件を起していますが、そこで殺された12人の半数以上の親も教員だったはず」
「そうだったのですか」

「現社会は間違っているとの一種の正義感が嵩じたのでしょうね。ですから、自分は純粋培養されて育ったと言う事を認識して社会と自分を見直さなければなりません」
「教員の子供って社会に出てから苦労するのですね」
「毎日の現実と思考の落差に、ストレスが相当溜まるでしょうね」

この後の合田君本人を交えたやりとりの記憶は無い。
確かなのは、彼が次週の月曜日から出社する事になったことです。

彼の自宅からの通勤は困難でした。通勤道路は、岩国→大竹→大野町→廿日市→五日市→広島市内。
この経路、当時は狭い国道2号線一本でしたから朝は大渋滞。

会社の2階の独身寮(個室)に宿泊し、金曜の夜に自宅に帰り、日曜の夜に戻ってくることにしました。
最初の一ヶ月は、何事も無く、仕事に一生懸命に励んでいました。

二ヶ月程経ったときでしょうか。誰かが言ってきました。
「合田君が泣いています」
「君たちがいじめたからだろう?」
「違います。本人に聞いて下さい」

早速、合田君に聞きました。
仕事でちょっとしたミスをしたようでした。

翌週、山口の自宅から月曜日になっても広島に戻って来ず。
奥さんから電話が来ました。

「会社を辞めさせて下さい。主人の体調が思わしくありませんから」
「今が夫婦で耐えなければならない時です。ご主人の自立心を育てるためにも」

「私も、そう思います。でも、主人がどうしてもと言うものですから」
「ご主人とこれから幾十年も夫婦なのですよ。今が一番重要な時です。何が何でもご主人を会社に来させるべきです」
「そうします」

数日後、彼は広島に戻ってきました。
だが、一ヶ月弱後にまた同じ現象。再度、奥さんとの電話。

この事態が三度目の時の奥さんからの電話。
「やはり主人を辞めさせて下さい」

「諦めちゃ駄目ですよ」
「でも、常務さんに、これ以上、ご迷惑をかけることは出来ませんから」

「社員は、大なり小なり、迷惑をかけるものですよ」
「でも、主人の場合、限度を超えているでしょうし」

この時、一瞬、脳裏をよぎったこと。
ひょっとして、山口で新たな就職先が見つかったのかも。

「これから、どうするのですか?」
「分かりません」

「今まで、何度も会社を短期間に辞めての繰り返しですから、それが今後も続きますよ」
「仕方がありません」

「お腹に、お子さんがいるのでしょう」
「はい。今度の日曜日にお互いの両親が集まって話をすることになりました」

「そうか。お子さんは産むのでしょう?」
「はい。必ず産みます」

「分かった。それじゃ、そうしよう。元気なお子さんを産んでよ!」
「はい。色々と有難う御座いました」

「いらん事を言うかもしれないが、夫婦二人でラーメン屋かそば屋を開いたらいいかも」


合田君は、こうして会社を去りました。
彼のその後の事は、分かりません。
可愛いお子さんの父親になって、人間が変わったかもね。

               ★

今思えば、彼は一種の適応障害だったのかも。
他方、それから三年後、札幌で採用した教員の子(大卒24歳)も同じ現象でした。