世の中には、まさかこんな人がいる

私の履歴書・182

やはりそうでした。
自宅に電話をすると、父が亡くなったとの事。

急遽、広島の自宅に帰り、山陽新幹線に飛び乗りました。
本社総務課に電話。

山陽新幹線の車内電話は、トンネル&トンネルでブッチン&ブッチン切れる。
辛うじて父の死を伝え、本部の青葉部長への伝言も依頼。

「とうとう、ここまで来たか」
寝台列車の中では、もう、涙は出ませんでした。

しかし、私の反抗期に父はよく耐えたもの。改めてつくづく思いました。
何しろ、私の反抗期は半端なものじゃなかったですから。

イメージ 1
既に棺桶の父との対面。そして通夜。
翌日は朝から雨。
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父の葬儀はお寺で。
弔辞は、父の親友の文筆家。
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流れるような漢文調。
三国志諸葛孔明劉備玄徳の葬儀の時に読んだ弔辞の雰囲気。

皆、感涙!

葬儀が終了するや否や、親戚の人達が「このような素晴らしい葬儀でこのまま去るのではもったいない」と大騒ぎ。急遽、写真屋を呼び、親戚一同で写真に収まりました。

(写真 前列右から二人目が妻と二人の子供。その隣が私)

       ☆       ☆       ☆

実は葬儀の前日の通夜、広島営業所・小橋所長からわざわざ本荘まで電話が来たのです。
「水無瀬君、早く帰って来い。明日でも帰ってくるのかい?」

「所長、今夜は未だ通夜ですよ。何という電話をあなたはするのですか? 規定では、一親等の場合、確か五日間の休みがとれるはず!」
「しかし、お客さんから電話がくるだろう」

「所長、私の場合は、既に電話が来るだろう相手には、全箇所、電話を入れています。だから、私には数日間、電話は来ないはずです」


他方、本来、この葬儀には私の直属の上司である本部の青葉部長が来るべきなのに来ず。出張と重なったとかで。それなのに代理をも手配せず。

葬儀が終わってから三日後に広島営業所に出社。
本社総務部総務課長に出社報告。

その電話で、総務課長は総務主任と代わりました。
「水無瀬君、君の事で青葉部長が変な事を言って本部で騒いでいましたよ」

「何じゃ?それは?」
「水無瀬君は、連続して休みをとりたいから、父親を死んだことにしたのだと」

「何という連中! 青葉部長にしろ、小橋所長にしろ、この二人は真っ当な人間では無い!」

       ☆       ☆       ☆

他方、私は、大失敗をしていたのです。
父の延命の件で。

父の三回忌の時です。母が、ポツリと言いました。
父が人工呼吸器を着けてから半月後、病床に医師が来て言ったそうです。

「この人工心肺があれば、今日、溺れて担ぎ込まれた子供を助けられたのに」

この医師には参りましたね。子供が亡くなってからですから。

何故に、子供が担ぎこまれたときに、それを言わないのか。
この人工呼吸器があれば子供の命を助けられると。

恐らく、その時、その話を聞いたなら、母に、「父の喉元に入っている管を抜け!」と言ったでしょう。

父の喉に入り込んでいる空気は、単に命を永らえているだけのもの。
溺れた子供には、まだまだ輝かしい未来が待ち受けているのに。

他方、この医師は、ひょっとして?
「人工呼吸器が空いていましたらお子さんは死なずに済んだのに」
と、子供の両親に言っていたでしょうね。

確かめました。看護婦さんに。
当時、人工呼吸器は、この病院に実は同型のが二台有ったのです。

処が、そのうちの一台は、半年前から故障して放置していたのだそうです。
だから、動かせるのは一台だけ。それを父が使用。

医師がうちのお袋に其れ程までに言うならば、その時、病院側のズボラで、もう一台の人工呼吸器の修理をしていなかったとも言うべきでしょう。


この事は、教訓になりました。

私の広島からの医師への電話 「わしが行くまで、親父を死なすな!」の一言。
これを言ったから、半月後の小学生の男の子が生き返れなかった!


心に決めました。単なる延命処置はしないこと。

後、私の妻への再々言い渡してあること。
「何事があろうと、延命処置と私の身体にメスを入れるな」

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