父の死

私の履歴書・181

父が最初に倒れたのは、私が23歳前後の時ですから1968年(昭和43年)頃ですね。

イメージ 1「父、危篤」の電報を片手に京都駅へ。
午後七時半前ですかね。
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指定席売り場に並びます。
二十番目位です。
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午後8時45分(?)発・寝台特急日本海は満席。
空席無し。
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もう一度並びました。キャンセル待ちで。
でも有りません。


電報を見せて、何とか乗せて下さいとお願いしました。
「その事情でしたら、ともかく寝台列車に乗車し、乗務員に事情を話してみてくれませんか?」とのこと。

「それで、通路でもいいから、私をそのまま乗せてくれるのですか?」
「分かりません。今日は満席なので。それに通路には規則で乗せられません」

並ぶ人数が少なくなりましたので、もう一度並びました。発射五分前。
「お願いです。もう一度、キャンセルがあるかどうか調べてくれますか?」

幸運にも、その時、一枚のキャンセルがありました。
切符片手に、改札の向こうの一番ホームに走りましたね。発車のベルが鳴る中。


羽後本荘駅着は翌日の昼前。入院先のJA厚生連由利組合病院(当時は本荘市花畑町 現在は由利本荘市川口)に駆けつけました。

個室に入りますと、父がベッドで横たわっている。
傍で母がワンワン泣いている。

母を廊下に連れ出して、大きな声で叱りました。
病室の父に聞こえるように。

「妻のあなたが泣いたら、父は、もう治らない程悪い病気と思うでしょう。たかがこれ位のことで泣くとは!」
父はそれから回復に向かいました。


イメージ 2
それから十数年後、広島での1982年(昭和57年)一月、父が倒れる。
母からの電話では、体力が相当衰えており、長くはないとの由。
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金曜日、広島から夕方の山陽新幹線乗車。
京都駅から午後8時45分発(?)寝台特急日本海乗車。
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羽後本荘駅着が明朝土曜日の昼前。田舎に一泊。
帰りも、日曜の寝台特急日本海乗車。広島駅着が月曜の昼前。


二月からは毎月二回広島⇔本荘を往復。
四月になりますと、いよいよ駄目だとの医師の話し。

この往復はほぼ毎週になりました。
金曜の会社を終えてから広島を去り、月曜の昼に出社。

京都からの寝台車通路の窓辺の座椅子に座り、流れる暗い外の景色に目をやりながら、流れるのは涙。幼少の頃からの父との思い出が走馬灯でした。

イメージ 3ある時、窓辺に座っている私は涙が出て止まらず。
寝台の下段の向かい同士の座席では四人の東北の小父さんが飲んでいる。
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一人の小父さん、私の傍に来て缶ビール500mmを無言で渡してくれました。
飲みました。東北の人達の暖かさを心に感じて。
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そのビール、しょっぱい。
自分の涙で。
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この時以降、涙は何故かピタリと止まりました。


四月下旬になり、いよいよ危なくなりました。でも、田舎に留まる訳にはいきません。この半年の田舎往復で、有休も使い果たしました。

深夜、お袋から電話。
お袋は泣きながら。

「医者が、今夜もたないと言っている!」
「当直の医者を呼んで来い!」
「でも」
「いいから電話口に呼んで来い!」

医者が電話口へきました。
私、怒鳴りました。

「わしがそこに着くまで親父をどんなことをしてでも生かしておけ!」
「 - - - - - - -  」

未明、お袋から電話。
「人工呼吸器をつけたら、呼吸が安定。一安心!」


それから二ヵ月後の六月下旬、身体の一部の腐敗が始まったという。
その日は、徳山市山口県)で展示会があり、朝から私は自社商品の展示。

会場では妙に身体が動かない。
これは危ない。

案の定、台の上に据えた30kgの機械が落ちてくる。
ゆっくりとスローモーション・ビデオを観ているように。

身体が動かない。逃げられない。
私の膝の上に落ちる。
私の両膝は真っ赤に内出血。

「あ~~、父が死んだ!」
つづく
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私の履歴書・30代編 目次
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