当時の京都と福山の夜の街

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『敗軍の将、兵を語らず』(史記)と言いますが、やはり将の器でない者は、口を曲げてよく喋りますね。恐れ入りました。
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その話す内容たるや『大敗の原因は全て他人のせい』ですからね。
55年体制以降の不満が一気に爆発したと断言。反省の色、皆無。
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駄目押しは、彼の勝負手『ネガテブキャンペーン』
他人を中傷すれば、自分が浮かび上がれると思う幼稚さ。
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他方、比例復活当選ってなんじゃ?あれは!
我等国民は、振り込め詐欺じゃなくて投票詐欺にあったような。


1980年(昭和55)頃ですね。

本社での会議が終わりましたら、出席者全員で居酒屋行き、そこでわいわいがやがや。
或る日、「水無瀬さん、これから飲みに行きましょう。私がおごりますから」

どうやら、東京支店の私の後任の鳴滝主任は私の販売ノウハウを聞きたがっている様子?
それとも、タケちゃんマンの指示により、私に変な遊びを覚えさすため?

私、当時、夜の街に関しての居酒屋以外の女性のいる店に関しては結構五月蝿い。
安物の店には行く気はしませんでした。でも、三度も誘われて断わる訳にはいかない。

祇園に出かけました。祇園と言っても、行くところはつまらんスナックでした。
あっと言う間に午前一時。

「さよなら!」と彼と別れる。さて、私は何処に泊まる?
当時は、京都駅前のサウナが出来る前。もしくは深夜営業無しだった頃。

さてさて、街の灯が消え、薄暗い祇園でどうしようか?
知人に電話をして今から泊めてくれとは言い難い。

タクシーを停めまして乗車。
祇園界隈で泊めてくれるところを探しました。

三軒目ですかね。見つかったのは旅館。木屋町高瀬川沿い団栗(どんぐり)橋下る。
当時でも、団栗橋と言いますと、着物姿のヨタカ(夜鷹)が登場する場所。

女将に通されたのが歴史ある三畳間。障子は破れている。
歴戦の傷痕のあるせんべい布団で寝ましたね。トホホ!


東京支店の鳴滝主任は翌月の時も、今度は梅田に誘ってくれました。
「水無瀬さん、トルコをおごらして下さい!」だって!



他方、広島の部下四宮君、度々、私と出張で福山に行きたがりました。
福山市では、地元の大手食品問屋と提携し、C機をこのエリアに販売。(福山・笠岡・府中・尾道向島因島

当時、福山の日本鋼管因島日立造船は縮小一途の時代。
それ故に、街には大量の失業者。

旦那は仕事にあぶれて、家庭での稼ぎ手は奥さん達。30歳代後半から50歳代ですね。
現地で家を建ててしまったから、地元から出るに出られない。

家のローンを払わなきゃならないし、子供に金がかかる年代。
女性の皆さん、必死でしたね。

処が、中年女性のまともな働き口って、福山市内ではそんなに多くはない。
当に、トドのつまりは、ピンクキャバレーのホステス。

四宮君、酒場での夕食を済ませますと、ピンクキャバレーに行きたがる。
それまで私、ピンクキャバレーに行ったのは一度だけ。1967年(昭和42年)頃、京都四条河原町の「琵琶湖」へ。

さてさて、福山のピンクキャバレーで彼女達の話すことと言えば、子供や亭主の事、。
それに 亭主が首になった会社の悪口。

部下の四宮君にとっては、母親に近い年齢。
その小母さま達のネグリジェ姿をどうして好むのか不思議でしたね。

尚、このピンク代は、定額宿泊費の差額と出張手当で賄えましたから、福山出張をしたがるのも無理はありませんでした。



広島営業所のBB課の連中と私が一緒に流川に飲みに行くようになったのは、広島に来てから三年目以降。
それまでは、近寄り難い堅物と見られていましたから。