しごかれる都度、より強くなりましたよ

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東京では昨日ですかね。梅雨が明けたとのことですね。
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都議選で、東京の闇雲が消えて、青空になったのかも。
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こちらでは先週末、セミの初鳴きを聞いたと思いましたら毎朝喧騒。
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今朝は殊更の好天にセミの喧騒の二乗。つまり、じゃかましい。
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但し、梅雨明けは未だだって。

私の履歴書・156

1978年(昭和53年)1月末日、単身で大阪へ。
宿舎は、会社の家族寮の空いていた部屋に。

難波の大阪支店出社にあたり、新たに用意する物はランニングの服装。
星(★★★)マークの美津濃のトレーニングウエアー上下にランニングシューズ。
これで二万円弱かかりましたね。

二月一日。寒い朝。この日は終日本当に寒かった。
六時起床、七時半大阪支店出社。
集まったのは食品機器課員十五名(京都・大阪)。

リーダーが、大阪支店食品機器課津山課長31歳。
最年長が34歳の社員。あと何ヶ月で33歳になる私が二番目の年長。

早朝ランニングです。会社の前を一斉にスタート。
果たしてどの位の距離を走るのかは不明。とにかく先頭について走りました。

結構なスピード。ジョッキングどころではありません。きつい上り坂もある。
皆さん、毎日走っているので、私は途中でへたるのを覚悟しましたね。

私はぜいぜい息を切らしながら走りました。
何しろ、こんなに早く走るのは13年振り。高校時代以来ですからね。

処が、不思議な事に、一人、また一人、脱落していくのです。
街の中、路地、公園、寺社仏閣を通り抜け、30分後に会社着。

私は、三番目でした。
皆さん、話が違うじゃないかとの眼差しでしたね。

翌日、先頭は更にスピードアップ。
それに前日の五割増の距離でした。それでも私は三着。
そのランニングが毎日続きました。

距離延長で最後の走者のゴールが8時半過ぎになりました。
この時は流石に身内からブーイングが自然と起こりました。


参りましたのは、お腹が空いたことですね。
生涯、これ程脂身の肉を食べたかった時はないでしょう。

若手の社員を誘い毎日のようの焼肉屋や居酒屋に行きました。
大阪ミナミの焼肉は殊更美味い。

本社宮本課長(タケちゃんマン)からどういう指示があったかを聞きました。
誘って何度目かでようやく話してくれましたね。

事前の話では「東京でグータラしていた水無瀬は潰れる」
初日が三着だと聞くと「水無瀬が潰れるまで走れ!」

逆に身内の連中数名が潰れたと報告すると「やっぱりか~」
翌週からは、通常の距離に戻りました。

この最初の一ヶ月で使った私の飲食代と煙草代が22万円でした。
胃は荒れて、口の周りの皮膚は赤くただれましたね。

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さて、肝心の仕事の方では、全員新たにエリア分け。
私は東大阪市を担当することになりました。
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担当と言いましても、このエリアにはこの課の顧客は皆無。
飛び込み訪問一本です。
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近鉄大阪線東大阪の最初の駅布施駅で下車。
ここから徒歩で北上して行きました。
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寒いの何の。
二月とは、東大寺二月堂のお水取りまでが年間で最も寒い時季。
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当時、百円カイロは無く、それにキルテングの下着も無かった時代。
それまでは常に車でしたから歩き用の防寒具など持っているはずはありません。

ここ1時間、かじかんだ両手を擦りながらテクテク店頭から店頭へ。
飛び込み訪問をしては断られの連続。滅入った心に冷え切った身体。

茶店に入り、熱い一杯のコーヒー。精神と身体を温めなおして再度1時間の飛び込み訪問。
この繰り返しでした。

三日目に巡り合ったのが、石切に近い大阪の商売人にしては垢抜けした上品な40歳前後の夫婦の店でした。
夫婦で仲良く商売に励んでいる姿は羨ましかったですね。

翌日、この店の業界動向と市場予測を手持ちの本からコピーし、更に私見を手書きし、ホチキスで薄い冊子にして届け、その内容を説明しました。

翌々日の朝、この店から会社に電話が来ました。訪問要請です。
この時は、心、躍りましたね。

案の定、判子を持って待っていました。
色白の奥さんが益々素敵に見えました。

この私の受注が、大阪支店食品機器課が新エリアにしてからの初契約となりました。

この時、本社のタケちゃんマンが、大阪支店津山課長を電話で怒鳴った事を津山課長から聞いたのは一年後。