ロッキード事件・金丸信の秘書・白馬から志賀高原へ

民主党小沢党首の第一秘書が逮捕されて、いよいよ起訴となるかどうかは明日の24日に判明します。
小沢一郎さんと言えば、どうしても思い出されるのが田中元首相と元副総理の金丸信です。これに関して、当時の事を思い出しましたから、書き残しておこうと思います。

私の履歴書・137

1974年(昭和49年)東京に着任以降、ちょくちょく訪問していたのがユニマット
青山一丁目の青山ビル十一階。ビル売店コーヒーからオフィスコーヒーへの展開の時です。

当時の青山ビルと言いますと、このビルへの入居が一種のステータスでした。
事務所は広大なワンフロアー。事務所に入りますと、左が社長室。

フロアーの向こう側の窓を背にして、コの字の形の三方透明ガラスで囲まれた取締役室が三つ。
一つの広さが十畳。形はサンルームです。

秘書に案内されて、そのサンルームに入っての取締役との交渉です。
これが米国のタイルか! と、いたく感心したものです。

社長は、シグ・片山。浅黒・182cm・90kg。
先ずはシェイクハンドからでした。

シグ・片山氏と言えば、思い出すのが田中首相が米国の意向に反して中国との国交回復した故に、田中首相追い落としを謀り仕掛けられたロッキード事件。シグ・片山氏が証人喚問されたのが、1976年(昭和51年)6月、衆院ロッキード問題に関する調査特別委(田中伊三次委員長)にて。「ピーナツ・ピーシーズ」のトンネルで。

同年7月、ロッキード事件元田中角栄首相が逮捕されました。
次から次へと登場するテレビの生中継での証人喚問には固唾を呑みました。

この事件で他に思い出す言葉と言えば、「記憶にございません」「蜂の一刺し」「はしゃぎすぎ」
ジェット旅客機の名前では「トライスター」「DC-10」「ボーイング747

人名では「コーチャン副会長(ロッキード社)」「檜山広会長(丸紅)」「大久保利春専務(丸紅)」「児玉誉士夫」「小佐野賢治国際興業社主)」「大庭哲夫元社長(全日空)」「若狭得治社長(全日空)」


他方、余談ですが、「ほっこり京都人(21)」に登場する超堅物取締役経理部長もロッキード事件の裏金ルートに関与していて、南郷の自宅を刑事に見張はられていました。

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同じ頃です。都内にダイレクトメールを流しましたら、何故か山梨の大月インターを降た都留の人からマシンの問い合わせ。当時の中央高速道は、東京高井戸から大月までと記憶しているのですが。

オーナーとの交渉・打ち合わせは、午後八時以降。
和光市の自宅で夕食をとってから大月へ。

何の事でか忘れましたが、この時期に、金丸信の私設秘書二人と出会いました。
彼等は、甲府のお客さんを紹介すると言うのです。

私設秘書の給料は無い。名刺の威力を活用して、自分で稼ぐしか収入は無いのだそうです。
彼等と甲府市内や韮崎(にらさき)などを同行訪問しました。

彼等と彼等の指定した顧客を数回同行訪問しましたが、結果は出ず。
私設秘書の力は、大したことが無かったです。

甲府からの帰路はいつも午前零時をまわっていましたね。
高速道路ではもう前が見えない。寝不足と疲労による睡魔に襲われて。

途中の高速バス停に停めて眠りました。八王子~三鷹の間でしょうね。
目が覚めたら東の空がしらじらと明けてきたことが二度。その時は、その足で会社に出勤しました。

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話は変わりますが、

面白い男がいるというので、新宿で井上さん(35歳位)という人と会いました。
彼は新宿にヒレカツの美味い店があるというので、千円の定食を一緒に食べました。
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今でこそ当たり前ですが、分厚いヒレにカラリとした衣。
それにどろどろしたタレを自分でかける。当時としては珍しいものでした。

イメージ 1.
その彼の叔父さんが、長野の白馬でスキー場を経営しているから、一緒に行ってくれというのです。即、OKしましたね。(写真は、栂池スキー場)
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関越自動車道が、川越から東松山まで開通(1975年)した後ですから、1976年(S51)一月の中旬でしょうね。
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白馬での面談が朝の九時のアポイトメント。
ですから、和光市の自宅発が午前四時。

降雪による通行止めを恐れ、所沢→秩父→小諸のルートを避けて、所沢→高崎→碓氷峠→軽井沢・小諸。そして→長野→白馬へ。

夜明け前が、小諸→上田間のほぼ直線道路。ここの区間では小雪にツルンツルンのアイスバーン
時速五キロ前後のトロトロ数珠(じゅず)つなぎ。途中、前が進まず何度か停止しました。

午前八時過ぎにJR白馬駅着。
休憩してから駅近くの白馬観光開発へ。

当時は木造の古い建物。社長に面談。
社長の紹介状を持ち、白馬八方尾根・岩岳・栂池の宿泊施設を訪問。

keyコーヒーの地元営業所が応援してくれました。
二日間、有線放送にも流してがなり立てたのですが時期遅し。

一般にスキー場関係の施設への営業は、夏。納品は11月。
支払いは農協が立替のシステムだそうですから、一月では相手にしてくれませんでした。

白馬観光の社長は、気の毒がって栂池スキー場の休憩所に一台購入してくれました。
その場所というのは、リフトの乗り継ぎ場所の休憩小屋。雪上車がもう登れない場所。

井上さんと私、それに白馬観光の職員五名を加えた人数で、100kgのマシンをソリに乗せて雪の斜面を押し上げました。力一杯押しますと、ズボズボと腰まで雪にめり込みました。

マシンを稼動させて深夜の雪道を走って東京へ。
とたん、翌日昼に故障の電話。またまた、東京から白馬へ走りました。

前夜は、その冬一番の冷え込みとかで、地元の水道業者がジョイントした水道のつなぎ目が凍ったのでした。

イメージ 2.
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白馬観光開発の社長は、またまた気の毒がって、志賀高原スキー場を紹介してくれました。そこで日を改めて志賀高原にアポイトメントをとり東京を出発。
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志賀高原スキー場の社長は山の上のリフト小屋にいるとか。
ゴンドラに乗り、リフトを二本乗り継いでようやく社長と会えました。
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とたん、リフトは強風でストップ。
リフトを降りてから15分後でした。

あと五メートルでリフトから降りられるところにも人が乗っています。
猛吹雪でしたね。石炭ストーブにあたりながら下から彼等を見上げました。

依然と雪は前が見えない程の横殴り。頭上のリフトの彼等は雪で真っ白。雪だるまです。
それにゆらゆらと左右に大きく揺れます。停止時間は40分。

社長は、この時期、雪上車で上ることが出来ないから、ゴンドラ→リフト二本を乗り継いで手で抱えて持って来るなら直ぐに設置して欲しいとの事でした。(リフトはそれから更に上に行くもう一本ありました)

100kgの本体を分解して三等分したなら何とか抱えてリフトに乗って運べる可能性はありました。でも何かありましたら、ゴンドラからリフト二本を乗り継がなければなりません。

それに、もしも吹雪が続きましたら、リフトは終日完全にストップ。
当日下山不可能なこともあるとのこと。納入は諦めました。
                           
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(追記)2016.07.25

前年購入意向でしたが積雪で搬入困難故にお断りした志賀高原スキー場から、この翌年の秋、うちのBB営業部長野営業所にこのマシンの注文が入り納入したということです。

但し、BB営業本部では、長野の営業社員の営業努力の賜物だと褒め称えましたから大笑いでした。彼らにとってこのコーヒーマシンは触ったことも見たこともない代物なのでした。


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