(No.123) 1975年(S50~)頃の私の東京の夜

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.1975年~(S50~)頃の私の東京の夜と言いますと東静物産㈱綾部社長と。
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渋谷界隈の飲み屋に行く時、車を渋谷駅を見下ろせる道玄坂の路地に置いて。
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新宿や銀座に行く時は、私の車で夜の都内を駆け巡りました。
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「深夜になる程、運転がなめらか!」とは綾部社長の私の運転評。
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私の履歴書・123

綾部社長と渋谷で最も多く行ったのは、小さなクラブで、ナマオケ(生伴奏)。
当時は未だカラオケが流行る前。ピアノやギターの伴奏で歌いました。

この時に歌ったのが、「白い花の咲く頃」と「喜びも悲しみも幾年月」。
歌は、これしか知りませんでしたから。


道玄坂では、ビルの一階にスナックがありました。
「ここは面白いところだよ」と綾部社長。

芸能人と政治家がおしのびで度々利用する店との事。
スナックの店の奥の緑のカーテンを開けると、そこは連れ込みホテルの入口。ジュータン直結。



新宿と言いますと、車に社長を乗せて、歌舞伎町炉ばた焼き居酒屋へ。
昔の記憶を辿ると歌舞伎町一丁目・新宿区役所の東のゴールデン街の近所。花園神社の向い側?

ギター片手の流しがよく回って来ました。時にはお客として可愛い十代の女の子が中年男と。
「今度歌手デビューしますから宜しくお願いします!」との挨拶。

当時の新宿1~3丁目は、丸の内や渋谷と比べて事務所家賃が安いこともあり、新興プロダクションが多かったそうです。

何人かの女の子から挨拶されましたが、それが誰だったのか分かりません。
魚好きの彼等が食べに来たのですね。カメラを持っておくべきでした。
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飲んだ夜の最後は、社長の住居・三軒茶屋のマンションへ。
甲州街道に面しており上に高速道路が走っていました。
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このマンションの地下の小さなスナック。不思議なママ。
カウンターに座れるのはせいぜい五人と小さなテーブル席が二つ。
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店内は暗い。微かにクラッシックが流れる。
三十歳過ぎの女性がママ。一人だけ。

色白。整った目鼻立ち。知性と僅かな憂いの横顔。
行く都度、洋服が違う。ツーピース。時にワンピース。

客は無言。ママも無言。ママは、ニコリともしない。声を出す雰囲気ではない。
偶にカランというグラスの中の氷の音がそっと響く。

ここのカウンターに座りママの仕草を見ているだけで何故か落ち着きましたね。


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さてさて銀座

銀座のクラブへは、社内のDD部三浦課長(仮称36歳)にも度々連れて行ってもらいました。
銀座何丁目かは忘れましたが。


テーブルは五つ。店内は、アイボリーで統一。白いグランドピアノ。

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ママさんは、三浦課長と同い年。
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斜め横顔はデビュー当時の久我美子(写真)に似ていましたね。
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行く都度、緊張しました。

三浦課長と一緒に帰る時は、銀座からタクシー。
先ず私を和光駅で降ろしてから彼は新狭山へ。

金曜・銀座ラッシュの夜11時過ぎは、タクシーを拾えませんでしたね。
銀座から20~30分程歩いてようやくタクシーを拾えたことも。


或る日、突然、彼は会社を首になったのです。
実は、彼は、工事の下請けニ社に毎月計70万円をこのクラブに振り込ませ、パトロンしていたのです。

継続取引先の大手スーパーが出店を控えた為、数ヶ月間下請けに仕事が無い。
下請けは本社に直訴したのです。払いきれないと。


その後を引き継いだ課長、実績が上らないから、その大手スーパー本部事務所で、担当者が席を外した隙に、そのスーパーの社判を注文書に押して会社に提出。

四ヵ月後、本部長が大手スーパー本部を訪問して受注していないことがバレました。
この課長も即刻、首!

尚、三浦課長とその後を引き継いだ課長は、二人共に元関西のあるプロ野球球団のピッチャー。
現役の時は数度登板したことがあります。
                        つまらん話をはしょりましたようで