その時々の感情が運命を変えていくのですね。

私の履歴書は、2009.05.07現在、No.142(1977年)ですが、No.101とNo.102の記事が書きかけでしたので、とりあえず102を書き上げました。 会社に入る前の雑記です。

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卒業しましたら彼女と結婚しようと思いました。
1972年(昭和47年)頃、秋田の田舎に数度車に乗せて連れて行きました。
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父母は気に入ってくれました。
でも、先方の両親を口説くには相当難儀だろうと言うのが父の意見でした。
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父には、京都に来た都度、私と岡さんと一緒にしている仕事の現場に連れて行きました。
「成る程!これで食える!」と言うのが父の私の仕事への評価でした。
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「でも、それで相手の親が納得するか?」と父。
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案の定、彼女の父親は「自営では嫁にやれん。定職に就くこと」が条件。
その時は、定職に就くと言う事が、どんなに低収入が続く事とは考えてもいませんでした。
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巷でマイホームは夢と騒いでいる事が不思議でしたね。
その時の収入で、その気になれば、二年半で、結構いい家を京都市内に建てられましたからね。


私の履歴書・102

《会社に就職した理由》

会社勤務をしたとしても仕事では問題なくこなせるだろうと思いました。

同じ年の連中とは、大学卒業年度で5年のハンデイ。つまり5年遅れ。
年功序列でなく実力評価での昇給昇進の会社なら追いつくのに2年も要さないはず。(結果は12年)

1978年(昭和48年)全く知らない会社を面接しました。
春、面接をしまして、こちらの条件として、入社を11月にしてもらいました。

それまで二人でやってきた仕事を一人に任すのですから、人間関係の引継ぎ期間が必要でした。
もう一つの条件は、既存の事業部では面白くない故、新規事業部への配属です。


全く知らない会社に入った理由は、万が一、私がご期待に副えない働きの場合、紹介者に迷惑をかけますから。
と思う反面、自分の実力だけでやっていきたいという若気の至り。


入社前までは、京都である程度知られている大半の会社の社長宅に出入りしていました。

中でも、40年弱後の今でも鮮明に思い出せるのは立石電気(現、オムロン)の創業者立石一真氏(1900-1991)宅ですね。
住居は、嵯峨野方面(鳴滝)の木立の中でした。

(注)現在は「オムロン創業記念館」。嵐電鳴滝駅から100m。

私は当時京都の風習を意識していましたから、奥様(信子夫人)から行く都度座敷への誘いが有りましたものの、断って縁側でお茶を頂きました。

(注)信子夫人 宝酒造創立者四方卯三郎氏の長女。後妻。立石一真とは1961年再婚。
義雄氏の義母でもあり、立石一真氏の長女啓子さんの姑。
尚、義雄氏の実母元子さんは1950年義雄氏10歳の時、ガンで死亡。
 

それと、当時28歳前後の立石義雄(立石一真氏三男)さん。
紺色の着物姿で縁側に腕を組みながら立ち、庭の植木をじっと見つめていた光景に二度出会いました。

参考)立石義雄 昭和14年(1939年)生れ 同志社大卒 昭和62年オムロン代表取締役社長 この記事を書いた2009年は代表取締役会長 

その頃、立石さん宅の庭には、防犯用としてエナメル線が張り巡られていました。
庭の散策で何度かそのエナメル線に触れて切ってしまうのです。

切れますとリレーが作動して、その都度、防犯ベルが鳴るのです。
無論、切れた線の両端を寄せて元のように繋ぐのです。


風流だったのは、山科の疏水べりの南斜面の落ち葉の中の古い木造の家屋。
ここにもエナメル線。
会社の名前は思い出せんが社長夫人は、かすりのもんぺ姿でしたからびっくりしたものです。

余談ばかりですが、たこ焼屋の増井(浅井)の婆ちゃんの息子さんは、1967年(s42)当時、東証一部上場の建設会社の取締役でした。

更に余談ですが、1971年s46頃、川端康成が愛した京都の旅館「柊屋」(ひいらぎや)のお母さんが岡崎の病院に入院。何度かお見舞いに行ったものです。
当時、息子さんは、慶応大学の教授で、病室で二度お会いしました。

当時の京都の素敵な女性と言えば、以前、申し上げましたように、大倉酒造(月桂冠酒造)の社長の弟(大倉義一 住居左京区岡崎)さんの奥様ですね。この人が一番でした。
                        - - - - - - いらん話ばかりでしたね