あっと言う間の二十代後半

私の履歴書・99
イメージ 1《さて、これまで書いていない私の二十代をはしょります》
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1969年(S44)、大学紛争・全共闘運動が激しさを増し、大学もバリケード封鎖。
歌手加藤登紀子の夫・藤本敏夫(故人)が京都を離れて東京で暴れていた時代です。

二年間程は授業ナシのレポート提出でした。
年間でとった単位が僅か4単位(一科目)のみの年もありました。

一生懸命アルバイトに精を出し中古の車を購入したのが1969年(S44)。カローラバン21万円。同時に下京区の化け猫屋敷から新築の山科のアパートに引っ越しました。

その頃、吉岡さん(仮称)と二人で美園社(仮称)を立ち上げた件に関しては述べていますね。
当初は収入が無く、アルバイトに精を出しました。

アルバイト中、S運送会社の総務課長の自家用車にノーブレーキの時速70㌔でオカマをされてアルバイト先の会社の車はパァ。以後十年間、気圧が下がりますと頭痛と唾液が出て苦しむこととなりました。

大阪万博には東京の長兄が、次には田舎の父母が来て車で五日間も行きました。
高崎の次兄宅へは、当時高速道路がなかった時代、中仙道を走りました。

恵那の寝覚めの床から塩尻峠→和田峠碓氷峠(旧道)を三往復しましたね。片道470km七時間でした。秋田の田舎へは片道800kmを休憩しながら16時間、四往復でしたね。

デパートの盆暮れの贈答品の配達では、一般の学生が月にせいぜい5万円稼ぐのに対し、私は7月に12万円台、8月には15万円台程稼ぎましたから、バイト代では処理できないとして、小切手で受け取りました。

この時に知り合った後輩(京都府向日町)とその友人(和歌山市出身)との三人で先ずは九州一周、次は正月早々の真冬の東北を一周しました。雪の少ない年でしたから十和田湖に入れました。

以後、サニーエクセレント1400ccが新発売されたのでカローラバンからこれに乗り換え。それから二年後、サニー1200ccがモデルチェンジしたので、このツインキャブ・5段ミッション・クーペGTに乗り換えました。

キャブが手動調整でしたので、ガソリン半分、灯油半分入れて走りました。灯油の臭いはキツイです。それでもトヨタ2000GTとゼロヨン(0→400m)を競いました。

その頃の話しの一部は、私の書庫「京都上加茂●●荘物語」です。

吉岡さんとの仕事は順調で、私の仕事は週二日程で済みました。主に平安高校の学生の授業が午前中のみの場合で、午後から彼らを私の車に乗せ、主に大津の工事現場に作業員の数合わせで運びました。週四日は朝から晩まで机の上で法律書判例・論文集相手が基本でした。

他方、妻が大学の四年の頃から、結婚しようと思いました。妻の父親は「ちゃんとした会社に勤務していなきゃ嫁にやれん」と言うので、これまで二人でやってきた吉岡さんとの事業でしたが、私の大学の卒業を機に私が手を引き新たに会社勤めを始めました。

余談ですが、東京に転勤してからも毎年お盆に家族で吉岡さん宅に寄りました。
処が行く都度20万円を私に渡そうとしますので都度断りました。私の会社務めでの基本給が約7万円弱の時代。一度受け取りますと、どうしても甘えが出てしまいますし、行く都度、たかりに来たと思われますから。

尚、この二十代につきましても、この他にも色々な事がありました。
その中で、我が人生最大のドラマチックな出来事に遭遇するのですが、現段階としては当時お会いした人達のプライバシーに係わる件なので省きます。お話出来るには十年後、それとも二十年後でしょうか。
                            はしょりすぎましたかな?