日本の朝鮮人拉致問題

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《ほっこり京都人 24-③》



第八回 植民地支配の根性まだ抜けていません③


▼「君が代」歌えず殴られた朝鮮人

 四歳のころ、祖父が繰り返し聞かせてくれた話を、今でもはっきり覚えています。「日本がやって来て、『併合』なんていって騙して国をとって、すべてを奪い、全朝鮮人を奴隷にした。

土地は没収され、火薬や銃に使われる綿花を植えさせられた。食べるために畦道に野菜を植えていたら、日本の警察が来て、全部引き抜いて、踏みにじって食べられないようにしていった。

皆餓死するくらいひどいことをされた。人のやることではない」と話す祖父の悔しさが、わたしに伝わりました。

 昭和一八年(一九四三)に朝鮮からこの近所に来た人も「そのとおりや。間違いない。全部そのとおりやで」といわはった。そして学校でもね。家でチョソンマル(朝鮮語)しか使うてへんし、日本語使えいうても使えへんし。小学校一年間だけはチョソンマル使うても許されるわけ。

それでも二年になったら、もう学校でウリマル(母国語)使うたら、朝鮮人やからウリマル使うのあたりまえなのに使うたら廊下に立たされる。それで三年になったら、一言パッと出たら、もう体罰やったそうです。

 また学校に行ったら、一番に「われら皇国臣民なり」をいわされた。道を歩く人は、「われら皇国臣民なり」をいえなかったら、殴られ、警察に連れて行かれたし、「君が代」を歌わされて、歌えへんもんは棍棒で殴られたというてはった。

 それでね。わたしの母も、朝鮮の道端でどっせ。道歩いてたら、「君が代」を歌えといわれたんですわ。「君が代」歌えるわけがおへんどすやろ。それで「知らん」いうたら、「この非国民め!」と棍棒で殴られたらしいのですわ。

そやからわたしが子供のとき、母はお巡りさんを見たらね、「隠れよう!」と家の中へ入って、便所へ隠れますねん。あんまりそんなことするさかい、「お母さん、なんにも悪いことしてへんのに、なんでそんなするねん」というたら、「巡査、見たら棍棒で殴りよんねん」と怖がって隠れたんですのや。

 それと出生届、婚姻届、死亡届などを出しに役所へ行ったら、最初に「君が代」を歌えいうて、歌えなかったら届けを受理してもらえへん。仕方がないから「君が代」歌える近所の人にみんなが頼むわけです。

そうすると、生年月日は間違える、名前の字は間違える。そんな朝鮮人が大勢いるんです。そやからわたしも、本当の生年月日は昭和元年(一九二六)一二月二七日なのに、昭和三年(一九二八)の一二月二七日になっている。わたしは戦争のどさくさまぎれに、昭和元年に直したけどね。

 ウリオンニ(姉)は、実際より一つ上になってんねん。大正一二年(一九二三)生まれやのに大正一一年(一九二二)生まれになっているねん。うちのコモ(叔母)もわたしよりも一つ上やのに、わたしと同じ年になってる。

他人の届けを多くの人から預かって、たくさん持っていくのやから、出すのを間違ったり、いうのを間違ったりしてしまう。字も間違っている人がいっぱいいるわけや。

そやからわたしが知っている人は、本当は「金月愛」やのに「金末仙」となっている。そういうことで間違われている人が数知れずいるわけです。



▼戦後すぐに朝連西陣支部柏野分会を結成

 朝鮮という国はね。よその国を侵略したこともなけりゃ、攻めていったこともない。よその国を植民地にしたこともない。いうたらね、本当に清い国です。

そやけど日本帝国主義がね、「チョーセン、悪い奴」「チョーセン、悪い奴」というのをね、国民に押しつけました。

 そやからわたし、子供の間はね、「チョーセン、ナップン帰れ!」「チ、ナップン帰れ!」と、いやというほどやられたんです。

「ナップン」いうたら「悪い奴」ということなんです。そやからわたしらの年代の人には「チョーセン、ナップン」という言葉を使った記憶があると思います。

 そんなこともみんな親から聞かされているし、そやから終戦になってからすぐ、うちらは、一番最初に朝鮮人連盟(在日本朝鮮人連盟。略称「朝連」。)というものを創りました。そのとき西陣地域で一番最初にできたんは柏野分会でした。

それからね、千本今出川の西北側にあるお寺の隣に三階建があり、そこが西陣支部事務所でした。そのとき女盟(在日本朝鮮民主女性同盟)京都西陣支部第一、二分会長いうたら、わたしでした。そのころわたしの長男がまだ小さいころやったしね。



▼陰ながら選挙運動に協力

 それから何年かして、早川一光さん(現、堀川病院院長)が紫野で四畳半の一室借りて診療始めはりました。わたしは一番目の会員です。三人家族、会費五〇円で入りました。

また、そのころ共産党さんいうたらね、顔も何も知らんと走り回ったもんですわ。それで選挙あったら、陰ながら応援した。自分の用事すんだらね。メガホン持って共産党の人に入れるように頼んで回ったりもしました。

ビラ、ポスター貼りもしたね。子供に糊の入れ物を持たして、わたしが紙を持って、そして糊つけては紙をペタンと張って。見つかったら放りこまれるので気張ってやりました。

 革新系の蜷川知事に高山義三、二人の初めての選挙のときは、ほんまにどんだけ貼って回りましたことか。共産党でしたら平田俊夫さんね。

昔は上京区でね。上京区が北区と分かれてからはしませんでしたけれど、それまでは平田俊夫さんのときも選挙運動に走り回りました。

 そのね。うちの近所に、お兄さんが共産党に所属していたという人がいてね。家に帰ってきたら、いつも家族にいうてはったらしおすわ。「朝鮮の人いじめたら罰あたるで。朝鮮人はなにも悪いことしてへんのやで。

朝鮮からなんの罪も無い人を強制連行して、日本人が仕事するとこで、重労働であかんようなとこばっかり連れていって働かせた。それで死んだ人もようけいる。それでも日本ではなんにもいわへん。

そやから個人だけでも朝鮮人をいじめたらあかんで」と、お兄さんがいうてたとね。その話を未だにいわはります。結核で死なはったそうですけど。結核を患っているとき、徳田球一さんが見舞いに来てくれはったというてね。

 それで今、拉致問題ね。あの拉致問題で毎日毎日騒いでいるときにね。あの奥さんだけがいわはりました。「金本さん、さぞかし辛いやろうな」。


そういわはるさかい「なんでどす」というと、「今、拉致、拉致いうてるけれど、自分らは数百万倍拉致していても、朝鮮の人はなんにもいわはらへんのに、わずかな人間でなんで騒がならんね」というて、わたしを慰めてくれました。

その人一人だけですわ、わたしを慰めてくれはったん。「わたしの兄がいうてたけど、そらほんまにもう、かわいそうな人をようけ連れて来てね。あれはみんな拉致や、いうてはりました」と。



▼旧態依然の植民地支配根性

 まあ、いろんなことがありますけどね。わたしの人生、そういう人生でした。八月一五日になってだいぶ変わりました。昨日までね、米英撃滅の歌、チャーチルルーズベルト、鬼畜米英、シナ、チャンコロ、ミナコロセといっていましたがね。

空襲警報鳴る前まではね、中部軍管区司令官発令というて、それから警戒警報、警戒警報とかいってましたがね。


 そやけども戦後になってもまだ、その植民地支配の根性抜けていません。自民党さんは特に、未だに抜けていません。わたしの思うてる限りでは抜けていません。

去年(二〇〇四年)自民党の麻生というお偉方が、植民地下の創氏改名強制について、「朝鮮人自身が望んだこと」という暴言を吐いたのには呆れてしまいます。

あんまりです。わたしの祖父はとことんまで改名しませんでした。そやけど責めて責めたおしてね。もう我慢するにしきれんほど責めにきたさかいにね。

玄の上に星付けただけです。そやから「星玄」とね。いたたまらんさかい「星玄」と変えたんです。昭和一八年(一九四三)まで改名せんと頑張ったというのやからね、たいしたもんどっせ。

 わたしは、今も西陣で帯を織る仕事をしています。家に織機を二台置いて、一日六時間、注文があれば土、日も仕事します。それでも生活は苦しいです。

十代から見習いで織屋(機屋)に入り、整経、経継ぎ、綜(アゼ。経糸をまとめる用具)ひらいなど全部習いました。今最初の工程から全部できる人は京都でも少ないといわれています。

 「この年まで頑張って仕事してる」とほめられるけれど、仕事は正直いってきついです。こんなんで一生終わらなあかんのかと思っていますが、家族を養ってきた自分の仕事には誇りを感じています。戦中は軍服を織らされました。

技術職といっても、戦後になっても差別はありました。賃織募集という張紙を見て訪ねていくと、「良い人が来てくれた。チョーセンが来たらどうしょうと夜も寝られなかった」と、面と向かっていわれたこともありましたが、家族の生活のため朝も晩も帯を織ってきました。



▼孫に「韓国人帰れ!」「おい、植民地!」

 左京区に嫁いでいるうちの娘の子供のことで、こんなこともありました。子供が学校(修学院中学校)から泣きもって家に帰ってきたので、うちの娘が「なんでや」と聞いたら、「韓国人帰れ」いわれたと泣いていうんです。


それでうちの娘が、拉致問題で毎日騒いでる最中だったから、学校へ乗り込んで、「韓国人いわれるのは韓国人やからどうもない。そやけど『帰れ』という言葉は許されへん。


わたしはね、二世です。父が強制連行された者の二世です。強制連行されて、ここで亡くなるのを自分の目の前で見ています。どれだけの悲しみで亡くなったのかを身にしみて感じました。そやから許されへん。強制連行された者の子供やから許されへん」と抗議しました。



 そしたら学校の先生が「韓国人帰れ」といった生徒の保護者を呼んだそうです。その生徒と生徒の両親から真摯な態度での謝罪があり、校長先生からも「これからこういうことのないように、お互いに協力してお付き合いしましょう」と話があって、うちの娘も納得して帰ったそうです。


 去年の夏ごろ、その孫がまた「お母さん、植民地てなんのこと。おい植民地!といわれた」と娘に訴えてきたというのです。植民地いうても、今の学生たちには何のことやら分からないはずや。

それは学校でも教えていないし、親もそんな阿呆なこと教えてへんやろうけどね。祖父か祖母がいて、植民地についてなにか話してんのをパッと聞いたんかいなと思うんやけど、「おい!植民地」というたらしい。

 そやから許されへんと思ったが、いっている本人もなんのことやら分からんといっていることやと、抗議しにいくことは止めにしたそうです。

だけど「帰れ!」といったことだけは、拉致、拉致とけたたましくテレビ、新聞で報じられていたときであったので、どうしても許せんと抗議したとのことでした。


                   次回が《ほっこり京都人24》の終りです



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