京都の根底に流れるもの

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さて、

《ほっこり京都人 24-②》

第八回 植民地支配の根性まだ抜けていません②

▼下鴨警察署から半死の父を連れ帰る

 で、まあね、わたしの父はね。言葉を上手にしゃべれへんのにね。どうして信用されたんか知らんのやけど、鐘紡ではね、なかなかの顔利きでね。

朝鮮の同じ村の人から「日本で働きたい」と頼まれますので、鐘紡へ行っていうたら「ほんなら、お前が保証人になって連れてこい」といわれ、ようけ連れて来ましたんです。

 最後にわたしの父が、チョ・ミョングンという人、娘は日本語で玉子と呼んでいましたけど、その母親と三人連れて来て、すぐ悉皆屋(しっかいや。染物や洗張りをする店)へ奉公するように世話をしたんです。

そしたら奉公先でね、日本の子が悪いことをしたんですわ。物を盗んだんですわ。そしたら見つかったもんやさかい、とっさに言葉も分からん者に罪を押しつけたんですわ。

「あのチョーセンがやった」と。調べもせんと、もう罪人扱いどす。それで三年懲役行って、もう日本は嫌やといって帰ったけれど。

 わたしの父がそんな者の保証人になったというてね。下鴨警察署へ連れて行かれました。どれだけ叩いたのか、もう死んださかい引き取りに来いという連絡があったんです。

母は言葉分からへんしね。わたしも子供やさかい「引き取りに来い」といったって、その意味が分からないまま、母といっしょに下鴨警察署へ行ったら、「女、子供が来て持って帰られると思っているのか」といわれたんです。

 近所にいた母の従兄弟になる叔父さん二人が板の戸を持って出直したんです。そしたらもう半死状態で息もしていないようで、父を戸板に乗せて急いで帰ってきたんです。

それでね、そのとき、貧乏やさかい医者にもかかられへんけど、ひょっとしたら生き返るかもと、食べる酢の一升瓶持ってきておいて、口に含んで吹きかけたんですね。するとおおかた一升瓶がカラになる時分に息吹返したんです。それで、七〇歳まで生きましたけどね。

 下鴨警察署にアボジを迎えに行って連れて帰る、あのときのことは、ほんとに死ぬまで忘れません。自分がやられたことも忘れへんけど。そしたら親戚がこの間、「叩かれた者は忘れへんけど、叩きよった者は皆、忘れよる」といっていた。

ほんまにそうです。そやからね。そういうふうになって父は三年間仕事できしまへんでした。死んだもんが生き返ってんのやから。

 仕事ができないのだからと、社宅も追い出され、それから数年間、父は患いながらも、借金して買った屋台車で焼き芋を売り、母も土方仕事をして暮らしていました。

そやから今でも御蔭橋のところの下鴨警察署ね、あそこの前を通ると、見る影もないほど腫れ上がった父の顔と姿を思い出して、怒りがよみがえります。まだそのとき(一九三三年)、わたしは小さい子供やったんです。


▼生活のため織り子に

 母は一日中水に浸かって土方をしていて、いつも産後の肥立ちが悪く、わたしが一一歳のとき、一九三六年五月に五人の子供を残して亡くなりました。引き続き六月には生後六ヶ月の妹(玄順連。ヒョン・スンリョン)も亡くなったんです。

 その後、病み上がりの父と家族が生活していくために、わたしは羽織の紐とか帯締めの紐を編んだり絞りをほどくなど、内職をしていましたが、姉は一四歳で高島織物へ勤めはじめました。

御盆のとき、内職で稼いだお金で、わたしが妹の服を買ったのを覚えています。姉はそのとき父と弟の服を買っていました。皆家族思いで仲良く暮らしていました。

 わたしも三年遅れて、姉と同じ一四歳になってから百万遍の近所にあった漆山織物で緯(ぬき。織物の横糸)巻きをしました。

その会社では整経(せいけい)から経継ぎ(たてつぎ)、糸繰り、緯巻きなど織物の全工程があったので、わたしは、他の人が自分の持ち場の緯だけまいてぺちゃくちゃ井戸端会議しているときに、その織物の全工程を習おうと必死になった。

こんな努力を認めてくれて、会社が廃業するとき、わたしだけを烏丸上立売にあった宮川織物に紹介してくれました。それから宮川織物で同じように仕事していた茂山さんの紹介で、当時西陣の同胞の中での顔利きであった栗山さんのとこで働くようになりました。

 そのころ、姉はもう結婚していて別所帯でしたし、わたしは一人前の織り子として働いていましたが、生活は苦しかったです。

父は長男でもあるし、一九四四年に、わたしと姉以外の家族は国に帰りました。帰る家族に何も持たせないで帰すのは忍びないので、それまで働いてためた貯金と、職場で借金したお金で、父には当座のお金と、妹弟には服などを持たせました。


▼強制連行されてきた夫とのくっつけ結婚

 そのころ、徴用といったら赤紙といっしょで、逃げられんものでした。それが来たら逃げるわけにはいかんのです。日本の軍隊でも赤紙が来たら逃げられなかったのといっしょで、徴用の紙が来たら逃げられへんのです。

 うちの主人(金明九。キム・ミョング)は七人兄弟の長男で、お母さんが早うに亡くなっていて、父親は病弱だったので、働き手で一家の大黒柱でした。

そんな中で徴用という知らせが来たんで、主人のお父さんが「家の大黒柱だから堪忍してくれ」というたんですわ。そしたら「この非国民!」といって蹴り飛ばされたそうです。お父さんを蹴り飛ばして、主人を無理矢理に日本に連れて行き、枚方の火薬工場で働かせたんです。年中無休、無月給です。

 そしてね、お正月に一泊二日で伊勢神宮に連れて行かれたそうです。朝鮮には正座という座り方はない、うちらは正座をしたことがないのです。

それなのに伊勢神宮に連れて行かれたとき、正座させられて、食事するとき、お粥をすする音がするとか、正座したら痛いさかい動くとかいって、長い棒を持ってきて、それで叩き上げたらしいんです。叩かれたといって、「それが悔しい」という話をよくしていました。

 それでもう、昭和一八年(一九四三)春に連れてこられて、昭和二〇年(一九四五)夏には終戦になったんです。強制連行された者は舞鶴に集められて、帰るときには着の身着のままです。そやから主人がね。これでは弟、妹やお父さんに合わす顔がないというてねいうたら脱走したんです。

 脱走してきた主人を、枚方飯場をしていたわたしの母方の親戚の叔母が「同郷の人だ」といって、わたしと結婚さしたんです。もうめちゃくちゃ。お互い顔も見ずにくっつけ結婚でした。

ほしたらね。主人の持ち物というたら、人絹のパンツ二枚だけ。その他なんにも、着替えもないという有り様でした。たったパンツ二枚だけ。洗濯もなんにもせえへんからシラミの子、それがいっぱいついてました。

 やっぱり解放されたんやさかい、国に帰ろうかという気持ちになったそうなんですが、やっぱり着の身着のままでは帰れへんしと思っておさまったけれど、そのとき帰ったら、浮島丸に乗ってんのですよ。浮島丸に乗って帰る予定でした。そやけど、止めにしたんです。

 それでまあ、こっちで働いて一旗あげて帰るつもりが、一旗あがらんじまいで終わりました。そしてそうこうしている間、親の死に目もなんにも分かりません。

兄弟も皆、嫁入りしたのかどうか、それも全然分からず、しばらく手紙のやりとりもできへんしね。あのころ、終戦になったというても、すぐに朝鮮と手紙のやりとりなどできしまへん。

 そういう始末でね。枚方にしばらくいたけれどね。結局、主人には手に職がないさかい、野良仕事、畑仕事ばっかりやったからね。それでわたしが昔いた京都に行って西陣織でも覚えて一旗あげようということで、京都へ来たんです。

 昔世話になった栗山さんは戦前に帰国しておられたが、茂山さんが整経の機械一式を入れてくれはって、主人が整経の仕事を習ってやり、わたしは織り子として働きました。

全然一旗あがらずじまいでしたけれど、まあ食べていって、子供たち(二男一女)も朝鮮学校に行かして、自分の住む家ぐらいはなんとか築き上げました。


予科練に志願した母方の伯父

 やっぱり昔のこと思い出すと、いろいろ複雑な思いがいっぱいあります。母方の親戚にね、兵隊に行った人もいる。弟の自分が志願したら、長男である兄貴は徴用を免れるだろうと思い、予科練に志願した者もいます。

ところが兄貴はすぐ南方へ徴用で引っ張って行かれたんです。それで、その母方の親戚は働き手を予科練、徴用と皆取られ、嫁と子供たち一家全部を連れて、わたしの父を頼り京都へ来ました。

 予科練に志願したもんは、あの特攻隊でね。水盃を交わして、もう出るというときに解除になった。終戦になったんです。

それですぐ、二人だけの兄弟だから、兄貴を探しにまわったら、足怪我して韓国へ行ったと、こういうのですわ。それで韓国へ行ったまま消息不明です。親も兄弟も自分の嫁さんも子供も、皆、ここ日本に来ているのに。

後はどうなったか、未だに分かりません。そういうことがわたしの身内にあります。そしてまた叔父さんが陸軍へ行くときには、わたし、街角に立って千人針してもらって、それを腹巻きにして行ってもらいました。
                                続く


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ほっこり京都人(24①)戦前~戦後の京都の街での「在日コリアン」の辛苦
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/54876416.html