だから京都人は京都が好きなの
ほっこり京都人(6)
【京都の人の言う「京都」の場所とは】
田舎から左京区北白川に来た当初、間借りの家に帰ってきたら、小母さんが言います。
【京都の人の嫌いな県民】
当時の京都人の最も嫌いな県民は、お隣の大阪人。
腰低い大阪商人には、口で丸め込まれるのを京都人は恐れていましたね。
それ故に京都人はあまり大阪には行かないのです。
腰低い大阪商人には、口で丸め込まれるのを京都人は恐れていましたね。
それ故に京都人はあまり大阪には行かないのです。
大阪に行かないもう一つの理由に、道路があります。
京都は碁盤の目。大阪に行き、京都に帰ろうと北の方向へ道なりに進みますと、いつの間にか南に向かっているのですから。
京都は碁盤の目。大阪に行き、京都に帰ろうと北の方向へ道なりに進みますと、いつの間にか南に向かっているのですから。
京都人は、碁盤の目の路で育ちましたから、曲がっている大阪の路には腹が立つのです。実は、私もそうでした。
他方、四国出身者をも忌み嫌っていました。
「四国のお人は、悪(わる)ばっかし」と。
「四国のお人は、悪(わる)ばっかし」と。
つまり、四国は、8世紀初頭から政争に破れた者や極悪人の流刑の地だったからなのです。
それに、四国高松は、大阪商人のおめかけさんを住まわせた街。
おめかけさんには、家一軒をあてがい、旅館をさせていました。
おめかけさんには、家一軒をあてがい、旅館をさせていました。
海の向こうですから、本妻の目が届かない所。
京都人は、それを知っていましたからね。
おめかけさんには美人が多いから、尚更かも。
京都人は、それを知っていましたからね。
おめかけさんには美人が多いから、尚更かも。
【京都の人の嫌いな方角】
でも、当時も、亀岡は晩秋から早春にかけて、ものすごい濃霧。
江戸時代の亀岡の濃霧は、老の坂峠を越えて洛中まで流れてきたかも。
どうやら気候の理由でしょうね。
江戸時代の亀岡の濃霧は、老の坂峠を越えて洛中まで流れてきたかも。
どうやら気候の理由でしょうね。
それでは、京都の南の方角はどうかと申しますと、これまた嫌いでした。
鳥羽・伏見の戦いで、京都の南方は、畑でもちょっと掘れば骸骨(がいこつ)が出てきましたからね。
いまだ、怨念の消えぬ土地。たたりがあると言って。
鳥羽・伏見の戦いで、京都の南方は、畑でもちょっと掘れば骸骨(がいこつ)が出てきましたからね。
いまだ、怨念の消えぬ土地。たたりがあると言って。
辛うじて、京都人が赦せる土地は、琵琶湖の南、「南郷」でした。
当時の京都の街は、借家が大半。借家の立退き料で、南郷に新築移転した人が多かったですね。
当時の京都の街は、借家が大半。借家の立退き料で、南郷に新築移転した人が多かったですね。
つまり、洛中に住む京都人は、京都以外は本質的には全部嫌いなのです。
不思議な事に、その嫌われている土地から来た人が、十年も京都の街中に住みますと、京都人と同じものが嫌いになるのです。そして、京都を出たがらなくなるのです。
不思議な事に、その嫌われている土地から来た人が、十年も京都の街中に住みますと、京都人と同じものが嫌いになるのです。そして、京都を出たがらなくなるのです。
これら全ての事は、京都の人が「京都を愛する」故なのですね。
追記)08.02.23
【京都人が赦せる土地・南郷】
石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
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