だから京都人は京都が好きなの

ほっこり京都人(6)

【京都の人の言う「京都」の場所とは】

私は20歳代の11年間と6ヶ月、京都の街で過ごしました。
昭和39年4月から昭和50年10月まで、京都市内をあちこち転居。

最初に住んだのが左京区北白川。
それから→下京区下京区→東山二条→(西大路)→下京区→山科(当時は東山区山科)。

田舎から左京区北白川に来た当初、間借りの家に帰ってきたら、小母さんが言います。

小母さん「おかえりやす」
私「河原町に行っていました」
小母さん「あ~、京都に行って来はった?」
私「????」

つまり、四条通の東は東山通り、西は烏丸。この周辺以外は、京都と呼ばないのです。
無論、東山の裏手の山科などは京都のうちに入らなかったのです。

当時、山科は、東山区山科。
それが人口増により山科区として1976年(S51)独立した区に。
プライド高い東山区の住民は、山科の分離で喜んだでしょうね。


【京都の人の嫌いな県民】

当時の京都人の最も嫌いな県民は、お隣の大阪人。
腰低い大阪商人には、口で丸め込まれるのを京都人は恐れていましたね。
それ故に京都人はあまり大阪には行かないのです。

大阪に行かないもう一つの理由に、道路があります。
京都は碁盤の目。大阪に行き、京都に帰ろうと北の方向へ道なりに進みますと、いつの間にか南に向かっているのですから。

京都人は、碁盤の目の路で育ちましたから、曲がっている大阪の路には腹が立つのです。実は、私もそうでした。


他方、四国出身者をも忌み嫌っていました。
「四国のお人は、悪(わる)ばっかし」と。

つまり、四国は、8世紀初頭から政争に破れた者や極悪人の流刑の地だったからなのです。

それに、四国高松は、大阪商人のおめかけさんを住まわせた街。
おめかけさんには、家一軒をあてがい、旅館をさせていました。

海の向こうですから、本妻の目が届かない所。
京都人は、それを知っていましたからね。
おめかけさんには美人が多いから、尚更かも。


【京都の人の嫌いな方角】

同じく、京都の西・老(おい)の坂峠を越えた「亀岡」も嫌いでした。
理由は「湿気が多く、肺病になる!」
これも、元を正せば、明智光秀が丹後・丹波を統括して治めていましたからかも。

でも、当時も、亀岡は晩秋から早春にかけて、ものすごい濃霧。
江戸時代の亀岡の濃霧は、老の坂峠を越えて洛中まで流れてきたかも。
どうやら気候の理由でしょうね。

それでは、京都の南の方角はどうかと申しますと、これまた嫌いでした。
鳥羽・伏見の戦いで、京都の南方は、畑でもちょっと掘れば骸骨(がいこつ)が出てきましたからね。
いまだ、怨念の消えぬ土地。たたりがあると言って。


では東の滋賀県はどうかと申しますと、湖西線を忌み嫌っていました。
その昔、大地震で、湖西の町が沈んだのを知っていましたから。

辛うじて、京都人が赦せる土地は、琵琶湖の南、「南郷」でした。
当時の京都の街は、借家が大半。借家の立退き料で、南郷に新築移転した人が多かったですね。

つまり、洛中に住む京都人は、京都以外は本質的には全部嫌いなのです。
不思議な事に、その嫌われている土地から来た人が、十年も京都の街中に住みますと、京都人と同じものが嫌いになるのです。そして、京都を出たがらなくなるのです。

それ故に、京都人が、東京に行く時は、涙を流します。
「野蛮な蝦夷の国・お江戸へ!」
所謂「都落ち」。行く人も見送る人も涙! 用事で行く時さえもそうでしたからね。

これら全ての事は、京都の人が「京都を愛する」故なのですね。


追記)08.02.23

【京都人が赦せる土地・南郷】

南郷の近くには、石山寺があります。
この石山寺が、古来、京都人に親しまれてきたからではないでしょうか。

参考)下記は、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より抜き出したものです。

石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。

枕草子』には「寺は石山」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。

更級日記』の筆者・菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)も長保3年(1001年)、石山寺に参篭している。

紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。

伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。

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