ほっこり京都人(4)

《京ことばの元をたどれば》

江戸中期の1803年(享和3)5月、滝沢馬琴(たきざわばきん)は江戸から京都・大阪に旅しています。
滝沢馬琴と言うと「南総里見八犬伝」の著者で有名ですね。

江戸時代は、曲亭馬琴(きょうくていばきん)と称し、「くるわでまこと」(郭で誠)とも読みました。でも、教育上、良くないので明治時代以降、印刷物は「曲亭→滝沢」に変更。


馬琴が、京都・洛中に入ったのは、この江戸時代後期。その記録によりますと、
「洛中(京都の中心部)の大半は、皆、妓院(ぎいん・遊郭)」
「色っぽい妓女(ぎじょ・遊女)はいるが、口ばっかり(実のある妓女は見かけない)」

江戸時代の洛中の範囲を当時の屏風絵から推測しますと、北は今出川通り、南は九条通り、東は東山通り、西は千本通りのようです。


この洛中の大半が遊郭(ゆうかく)との記述ですね。それに遊女はその界隈に住居ですからね。
洛中そのものが遊女や元遊女だらけだったわけです。それに、芸子と舞妓ですからね。


当時の洛中と街言葉がどうであったのか、想像に難くないですね。




イメージ 1参考1)江戸時代以来、芸子も遊女と同様、前借を抱えた年季奉公が多かったそうです。
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この人達の出身は、丹後・丹波地方が多かったようです。
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借金を返す為に、花街は、売春や人身売買の温床となったのですね。
置屋お茶屋でも、積極的に、それで客を釣ったようです。


参考2)花街での女性の呼び名のお江戸と京都との違い。

お江戸では「芸者」、その見習いを「半玉」(はんぎょく)、お代を「玉代」(ぎょくだい)
京都はでは「芸子」、その見習いを「舞妓」(まいこ)、お代を「花代」(はなだい)


「芸子」には、舞を主にする「立方」(たちかた)、長唄・清元・語り・三味線の「地方」(じがた)の二種類。


参考3)先日、NHKテレビでチラッと観た木曜時代劇「鞍馬天狗」で花街の女性を「芸妓(げいぎ)」と字幕が出ていましたが、あれは変。この呼称は明治時代以降のもの。当時の京都では「芸子」。


参考4)洛中と洛外の境界線

秀吉は「京の御土居」の土塁を作りました。
東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峰、南は九条。
この境界の土塁の中が洛中。



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