あこがれの女性

私の履歴書・31〈中学時代ー4〉
《止まらなかった涙》
(昭和33年:1958:中学1年の初夏)或る日の国語の時間、先生が言いましたね。「このクラスは、何故、授業中でもうるさいのだ!」と言って、授業を中断し、ホームルームになってしまいました。

この国語の先生は、隣のクラスの担任の、例の虎の巻の中年女教師。
色々意見が出まして、一段落したと思ったら、真由子嬢が手を挙げて私の方を見ながら毅然と言いました。

「このクラスのボスは冬樹さんです! 冬樹さんが皆を静めたら良いと思います」
その後、誰がどう発言したかは全く記憶にありません。

私は、泣きそうになりました。ボスと言われて。そんな風に思われていたとは、これっぽっちも予想だにしていませんでした。私のボスというイメージとは、ギャングのボスしか無かったですからね。

ギャングのボスのように、真由子嬢に思われていたのか!
ショックでしたね。勉強もクラス一番、お上品な憧れの真由子嬢に言われたのですからね。
田舎者の私には、憧れの人でした。絶望でした。涙を必死に堪(こら)えました。

休み時間、廊下の非常扉から外に出て、石段に座り一人で涙しました。
必死に抑えようとしたのですが、次から次へと涙がにじみ出てきましたね。

気付いた友人が傍に寄って来ました。「どうしたの?」
涙の理由は言えなかったですね。口が裂けても。純でしたね。


《もしも野球部に入っていたら》
体育の最初は、五人ずつに分かれてのバスケットボールの試合でした。試合時間は10分程だったと思います。その間に、6本程ミドルシュート(今の三点シュート)を放って全てネットに入れましたね。

次のバスケの時も、ミドルシュートはよく決まりました。その時の体育の先生が、バスケット部のO先生。その日から、付きまとわれて大変でした。バスケ部に入部を勧められて。


つきまとわれたのは、バスケの先生だけではありませんでした。クラス対抗野球の試合では、久々ですからヒットこそ打てなかったですが、何本かの大きな外野フライを打ちました。

これが野球部のN先生の目にとまり、この先生も、昼休みにはほぼ毎日私を探していましたね。更に、更に、ブラスバンドの音楽の先生も。この先生達が来なくなったのは、夏休み、母に、手紙を書いてもらったからです。それでも野球部の先生は三学期まで時々ですが来ましたね。


しかし、うぬぼれに聞こえるかもしれませんが、あの時、野球部に入っていたら、ひょっとして二年と三年の二度、県大会で優勝出来たかもしれません。何れの年も決勝進出。極差で敗退。

特に、残念なのは、三年の時、秋田南中学の打ったセンターフライを、センターがちょっと目測を誤り、手前でワンバンド。処が、軟球ですので、大きく跳ね上がり、彼の頭上を越えてバックスクリーンまでコロコロ。ランニングホームランとなってしまいました。

相手のヒットは、これ一本のみ。こちらは、毎回のように、満塁。処が、犠牲外フライは打てないし、バントは悉く失敗。「1対0」での負け。試合とは、こういうものですね。

   ☆   ☆   ☆

《洋画「ボーイハント」(Where The Boys Are)》1961年
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純粋な一点の曇りも無い瞳、上品なふくよかさの「ドロレス・ハート」(写真左)

今でも、直ぐに思い出されるのが、新たなボーイフレンドと一緒に、オフのスキー場のゴンドラリフトで上るのです。その時に、コニー・フランシスの歌声が静かに流れます。うっとりでしたね。
(写真右の左側の女性がこの映画に出演したコニー・フランシス

この映画で、即、ドロレス・ハートのファンになりました。でも、残念にもプレスリーの映画に何度か出演した後、尼さんになってしまわれました。お時間がありましたら、主題歌を一度、聞いてみて下さい。

ボーイハント)歌 Where the Boys Are
https://youtu.be/aHq66hAGBAI


この映画の物語の概略です→http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=21323