未発見の石器時代の遺跡

私の履歴書

未発見の石器時代の遺跡

■洞窟探検
私の小学高学年時代1956年(昭和31年)頃ですね。場所は当時秋田県由利郡下川大内村(現、秋田県由利本荘市)なのですが、具体的地名・場所は分かりません。

当時、中学生のガキ大将に従って、洞窟探検と称し、山里の端の洞窟にたどり着きました。彼らは持参したろうそくを点灯し洞窟の中に入って行き、私達も従いました。

イメージ 3
(画像)熊本・人吉海軍航空隊基地跡洞窟
この入口の雰囲気は、当時の記憶とそっくりです。

洞窟の入口はちょっと縦に長い四角形で、中は凹凸の無い白っぽい石壁で、奥行きは100mはあったと思います。

明らかに人が掘ったもの。青の洞門(『恩讐の彼方に菊池寛の短編小説)や、巌窟王(『モンテ・クリスト伯』)だと言いながら入ったのですが、ここは集落から離れた里の平地に迫った山の麓で、トンネルを必要とする地形ではなかったのです。

防空壕だとも誰かが言っていましたが、辺り一帯は米国の戦闘機が爆撃する価値は全く無い田んぼや畑に山ですから、この洞窟を掘った目的は防空壕ではないですね。

無論、こうもりがいて、なかを飛び交っていました。
私と友達は奥に行くのは怖く途中で引き返したと思います。

今思うと、この洞窟は御影石花崗岩)ではなかったのではと思います。そして恐らくここから石を切り出し、墓石用にでもしたのでしょう。


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■遺跡探索
同じく、このガキ大将に連れて行ったもらったのが古墳です。

同じ1956年(昭和31年)(小学校5年か6年)頃の或る休日、我等チャンバラ友達の一人、斉藤(正)君と低木のみまだらに生えている山の中で枝を切っていました。

と、中学生を筆頭に、小学四年~六年の数人が、これから探検に深山に入ると言うのです。これは面白そうです。そこで、我等二人も従いました。

低いひと山越え更に低いひと山。後半はけもの道ですから、草木をかき分け、道にかぶさる枝々に身をかがめて進みます。これから行く場所とこの道は、何日か前に父親に連れて行ってもらったそうです。

そこを抜けたらぺんぺん草もまともに生えきれないまばらな背丈の低い草しか生えていない黄土色の台地にたどり着きました。

ここの土は、どうやら草木にとっては鬼門のようでした。土は、細かく砕けたようなもので、質は、当時の下川大内小学校(現、大内小)の道路を挟んだ向かい側の崖と同じでしたが、それより最っと酸性度が強かったのでしょう。

中学のガキ大将の指揮下、地面をかがんで見ると明らかに普通の石ころではないものがパラパラ落ちています。中には、ちょっと頭を出したものは枝で掘ると出てきました。

イメージ 4

石器でした。
石の矢じりや刃物です。

私も4~5個拾いましたが、形の良くて4~5cmの良く切れそうな三日月形のミニ鎌らしき石器2個(台形石器)のみを持ち帰りました。ちょっと湾曲がかった刃先などはすべすべして、まるで砥石で研磨したようでした。(注)画像のものより、薄くてきれい。

今、改めて用途を考えると、どうやら稲穂の先をカットする道具だったのではないかと思います。

翌日、学校に持って行き、担任の先生に見せました。自慢げにね。
先生は、ふう~ん、と言ったのみです。

当時の教科書には静岡の登呂遺跡が写真と共に掲載されていていましたが、縄文時代弥生時代の遺跡などは東北に無いとの説明書きだったと思います。

ですから、この秋田県由利地方に有る筈がないのですから、先生は無関心だったのも当然でした。

今思うと、当時、東北には遺跡が発見されていなかったのですから、もしも先生がこのことを新聞社などに伝えたら、ひょっとして、世紀の大発見でそれまでの考古学を変えるものとなったかもしれません。

その石器は、暫くは自宅の机の中に入れていましたが、この二個と、他の崩れた斜面で見つけた四角い7~8cmほどの棒状の緑の石と共に、ポキンと折ってしまい捨てました。残念です。

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■本荘郷土資料館訪問
それから50年後の2005年8月17日夕方、新山の本荘(北)中学校の跡地に建つ資料館を訪問しました。展示物には、旧・下川大内村で発見された遺跡二ヶ所もあり、館長と色々話をさせていただきました。

成る程、あれから50年弱。東北でも色々な遺跡が発見されているようです。
今や、ご当地でも発見されて当然かも。

イメージ 1  イメージ 2
それにしても、この旧・下川大内村の二箇所の遺跡(才の神遺跡と鹿爪遺跡)の場所はどう見ても我等の発見した場所とは違います。

改めてgoogleの航空写真を見ますと、その所在地の見当は、由利本荘市松本の由利本荘市役所下川大内出張所を軸とすると5km以内の山の中です。ですから上記平地の二ヶ所とは、立地条件的には全く違います。

イメージ 6
候補地をA~Dに示しましたが、感覚的にはA⇒C⇒Dなのですが、台地らしき箇所が見つかりません。下方が田んぼで遠方は左右に連なる山々ですから、Bはちょっと欄外かも。
台地らしきものが見えるのはEなのですが、ひと山越えた条件には適合しません。

この台地の雰囲気は、規模の大小は分かりませんが、下記の伊勢堂岱遺跡とよく似ています。
イメージ 5

草木の無い平らな地面は台地になっていて、下方を見下ろせるのは片方向だけ。

それにその方向での真下は台地の先端の下から生えている草木で見えませんが、遠方の田んぼと低く連なる山々が遠くに見えました。家屋は見えませんでした。

ひょっとして、この場所は、かって我らを連れて行ったガキ大将でしたら、今でも思い出すかも知れません。

恐らく昭和17年か18年生まれで、由利本荘市役所大内総合支所下川大内出張所(由利本荘市松本)周辺の集落で生まれ育った方だと思います。

何とかこの方を探し出し、新たな遺跡を発見したいものです。

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(注)この記事は、2018/5/11(金)に以前の記事に加筆と修正をしたものです。
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〇才の神(さいのかみ)遺跡
所在地,:秋田県由利本荘市徳沢字才ノ神63-2外
〇鹿ノ爪(かのつめ)遺跡
所在地:秋田県由利本荘市岩野目沢字鹿ノ爪104ほか

(画像)
〇洞窟 熊本・人吉海軍航空隊基地跡洞窟 日刊工業新聞 2018/5/5(土)
〇伊勢堂岱遺跡
所在地:秋田県北秋田市脇神字伊勢堂岱
http://jomon-japan.jp/archives/6910/
〇下堤G遺跡の旧石器
http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/cl/site_report/shimotsutsumiGsite_paleolithic/default.htm
石器時代稲作図
http://www.tanbo-kubota.co.jp/active_learning/foods/history/01.html

(資料)
鳥海山麓、日本海沿岸部の縄文文化
第2回出張展示資料PDF
http://www.pref.akita.jp/gakusyu/maibun_hp/pdf/H28pdf/H28syuushinn.pdf