俳句の祖・山崎宗鑑屋敷跡と芭蕉

作者谷崎潤一郎は、阪急大山崎で下車。徒歩で京都・大阪の国境へ。
彼はこの国境近くの茅葺の家並みが続く西国街道を一軒一軒覗いて行く。



だが何故かこの国境の碑の南隣の『関大明神』(平家物語で有名)の事は語られていない。
そして、この関大明神のはす向かい二軒南にたたずむ『俳句の祖・山崎宗鑑屋敷跡』も。



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谷崎が書いていない山崎宗鑑屋敷跡地(旧社家石上家)には、松尾芭蕉の俳句の50cm程の句碑が立つ。
芭蕉が、宗鑑没後、この屋敷を訪ね、敬意を表して詠んだ俳句である。



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蛤御門の変で、この辺も全部焼けたそうですが、この門だけは焼失を免れたそうです。
尚、この家は、離宮八幡の社家だったそうです。


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「ありがたき すがたおがまむ 杜若(かきつばた)」
    芭蕉 (貞永四年・1687年)


他方、フリー百貨辞典『ウイキペディア』で「関大明神社」を検索すると、上記場所とは違って、この関大明神社の「門前、道を隔てた北側に伝山崎宗鑑屋敷跡碑が建つ」と述べられている。

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(写真は、右の建物が関大明神・中央に国境碑・左が道を隔てた北側の天ぷら屋の三笑亭)

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 この石碑は北側である三笑亭の左横にあり高さは70cm程。
 何と書かれているのか私には読めない。




更に、JR山崎駅から100m程京都寄りの踏切を渡った所の天王山登り口にも『山崎宗鑑冷泉庵跡』の句碑がある。

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「うずききて ねぶとに鳴や 郭公」

この句は、一種の掛詞となっている。
一つ目の解釈は、「卯月がきて太い音で鳴くほととぎす」
もう一つの解釈は、「ねぶと(腫瘍)が疼いて泣いているホトトギス荒木田守武)さん」



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尚、最初の芭蕉の句「ありがたき すがたおがまむ 杜若(かきつばた)」の説明は下記の通
り。

 
 説明1)大山崎資料館でのこの俳句の説明は、以下の通り。


或る日、宗鑑は、近衛公に呼ばれて近衛公宅を訪問。
その身なり格好は、みすぼらしい姿。宗鑑は、その時、杜若を持参していたのである。
その話を聞いた芭蕉が、敬意を表して詠んだもの。



 説明2)他方、この資料館の説明とは異なる話しもある。(芭蕉全句鑑賞 田中空音より) 


痩せて足もよろける宗鑑が、池の杜若を取ろうとするのを近衛公がからかって詠んだ句。

      「宗鑑が 姿を見れば 餓鬼(がき)つばた」

この句に対して宗鑑が「飲まんとすれど夏の沢水」と付けたという。


 芭蕉曰く「近衛公は宗鑑を『餓鬼つばた』とからかったが、そんな痩せからびた姿にこそ世に背いた風狂者の趣があり、いかにも俳諧の祖としてふさわしい。自分は眼前の杜若にその有難い姿を偲んで拝もう」 


どうやら、後者の方に信憑性がある。


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他方、宗鑑は書家(宗鑑流)として奔放な書体である。

「風さむし 破れ障子の 神無月」