幽霊会社『美園社』(仮称)創業
yahooのブログよりも先に、今月3月末でYahoo!ジオシティーズサービス(yahooのホームページ)が終了し、完全に消去されますので、その画像と記事を総点検しています。
その中で、ホームページからブログへの転載で抜けていたヶ所がありましたので、下記に短縮し転載しました。
私の履歴書20歳代編
幽霊会社『美園社』(仮称)創業
私が緑化工務店(仮称)を去ってから二年後の1969年(昭和44年)、緑化工務店(仮称)の社長が死去。相続人は夫人と貰い子の一人娘の二人なのですが、夫人の兄が強引に廃業し、西洞院通りの駐車場と家屋と、亀岡の数百坪の土地を売却してしまいました。
従業員ははした金で若宮通りのウナギの寝床から放り出されました。無論、吉岡さん(仮称)もその中の一人でした。
20歳代後半、若くして課長になったやり手でした。
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余談ですが、南禅寺の参道沿いにある初代市田弥一郎氏が所有した市田・対龍山荘(たいりゅうさんそう、京数奇屋名邸十撰)の女将:市田ヤエさんと吉岡さんは懇意で、1966年から1967年にかけて対龍山荘には吉岡さんと何度か訪問し、邸内案内やお茶を馳走になっていました。
非公開・国指定名勝「対龍山荘」の思い出 2008/7/21(月)
尚、同時期に私が立石電機(オムロン)の創業者立石一真氏の嵯峨野・鳴滝の自宅で信子夫人(宝酒造創立者の娘)からお茶を馳走になった時、紺色の着物姿で縁側に立って庭を眺めていたのが当時28歳の三男立石義雄氏(1939年生まれ、後の三代目社長)。その妻:会美子氏(旧姓:市田)が市田ヤエさんの二女であることを知ったのは、2017年ですから、50年後となります。
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そこで1969年(昭和44年)吉岡さんと私は私の持っているある特殊な免状で登記もしない幽霊会社美園社を二人で立ち上げました。吉岡さんは当時48歳、私は24歳の時です。
緑化工務店時代は各企業の工場の仕事をする際には、ここが要と称し、都度、守衛に両切りの煙草ピース5箱を新聞紙で包んで渡していました。初回は守衛一人に付きその包み一個でしたが二回目以降の工事の時は二個に。
無論、この手法は、施設課長にもドドンと使いました。20個入りカートン8個(160箱)をここでも新聞紙に包んで。時にはこの新聞紙の包みを2個(320個)から3個(480個)。
ですから施設課社員達の煙草が切れたら、入札対象の金額に満たないように次の新たな補修工事が舞い込むというシナリオです。
つづく
(続編)
京都室町商人の真髄 2008/8/6(水)