台湾国民が抱く大和魂と武士道


3.11東北大震災には台湾国民の皆様から多大なご援助を賜り有難う御座いました。

本日は、あれから満8年、改めて台湾の人々の持つ国民性について、李登輝前総統、記念講演 「台湾精神と日本精神」で述べられているように、台湾国民こそが日本の古来の「大和魂」、江戸時代に培われた「武士道」精神を引き継いでいるものと思われます。

反して、戦後のマッカーサーの日本国民に「罪の意識」を徹底的に植え付けるWGIPウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)による日本愚民化政策で、大和魂や武士道は『罪悪』『軍国主義』とし、GHQがGHQの手先である日教組やNHKを始めとするマスメディアを駆使し、日本国民の脳幹まで自虐史観を叩きこんだ結果が、今の日本人の現状なのです。

北朝鮮チュチェ思想主体思想)を信奉する日教組日本教職員組合)の委員長は戦後の創立以来帰化人が占めており、その組合員である小中学校の教師から自虐史観を洗脳され続けてきたのが我等戦後の日本人なのです。

然し、それにも拘わらず我等日本人には、1008年(寛弘五年)源氏物語の時代には既に芽生えていた大和魂がDNAの中に脈々と1千年も受け継がれてきているのです。

これを明らかに示したのが、3.11大地震の時に世界が驚愕した日本人の当たり前の行動なのです。この日本人の当たり前の『利己の要素の無い行動』がまさしく『大和魂』であり『大和心』なのです。

以下は、以前、2015/6/27(土)、このブログで掲載したものですが、台湾の人々の根底にいかに大和魂と武士道精神が流れているかを改めて記事にし掲載します。

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李登輝前総統、記念講演 「台湾精神と日本精神」 (2002.12.15)

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これは、2002年12月15日結成された「日本李登輝友の会」設立大会においてインターネット中継された、李登輝台湾総統の記念講演全文です。

■日本と台湾は密接な交流が行われてきた両国民には文化的にも精神的にも非常に近いものが感じられます。

しばしば台湾人は日本人に、あるいは日本人は台湾人に、それぞれ親近感を持っていると言われるのもそのためなのでありましょう。これは国際関係の上においてはとても得難いことであります。

このたび貴会の事務局から「台湾精神と日本精神」と題する講演を依頼されたわけですが、そのようなことからもこのテーマは両国の、将来におけるより良き関係を考える上で、きわめて重要なものかと思われます。

そこで本日は、台湾人と日本人が共有するところの、精神面における特性なり長所なりを取り上げ、そのようなものを今後いかに発展、発揚させて行くべきかを、会場にお集まりの皆様と共に考えることができればと考えております。

■世界にとっても貴重な財産が「武士道」だ

さて、日本及び日本人特有の精神は何かと問われれば、私は即座に「大和魂」、あるいは「武士道」であると答えるでしょう。

「武士道」は日本人にとっては最高の道徳規範です。しかもそれは日本人にだけでなく、世界にとってもきわめて貴重な財産であると考えているのです。

現在人類社会では、台湾海峡パレスチナアフガニスタンイラク朝鮮半島など、各地において危険な動きが増大しています。更に政治や軍事の面だけではなく、経済の面においても、世界同時不況の予兆が高まっています。

このような危機的状況を乗り切っていくためには何を精神的指針とすべきかを考える時、私は迷わず日本の「武士道」を挙げたいと思います。

「武士道」とはそれができるほどの、人類最高の指導理念であると言っても過言ではないのです。しかし誠に残念ながら、世界が今最も頼りとするべき日本では、「武士道」も「大和魂」も一九四五年の終戦以降はほとんど見向きもされず、足蹴にされている状況にあります。

もちろんその背景には日本人の戦争の「過去」に対する全面否定、つまり自虐的価値観というものが大きく作用しているのでしょう。「武士道」などと言えば非人間的、反民主的な封建時代の亡霊であるかのように扱われている状況です。

しかし日本を苦悩させている学校の荒廃や少年非行、兇悪犯罪の増加、失業率の増大、官僚の腐敗、指導者層の責任回避と転嫁などといった、国家の根幹をも揺るがしかねない今日の由々しき事態は、武士道という道徳規範を国民精神の支柱としていた時代には決して見られなかったことなのでした。

つまりこれらの諸問題は、戦後の自虐的価値観とは決して無関係ではないということなのです。ですから「武士道」の否定は、日本人にとっては大きな打撃と言わざるを得ません。もちろんそれは同時に、世界の人々にとっても大きな損失であると言うこともできるでしょう。

実はそれ以前に非常に感動した書物として、十九世紀のイギリスの大思想家であるトーマス・カーライルの『衣装哲学』がありました。

これは人生哲学を含んだ大変な名著ですが、私はそこで「永遠の肯定」という観念に触れ、人生の真の意義とは実践躬行(キュウコウ、みずから実行すること)にこそあると考えるに至りました。

「躬行」とは簡単に言えば、良いと思ったら行うこと、つまり言行一致です。そしてそうした思想遍歴の中でたまたま手にしたのが新渡戸(にとべ )先生の『衣装哲学』の講義録だったのです。

私はそれの持つ深みを知って感激しました。それ以来私は新渡戸(にとべ )先生に心から私淑するようになり、そしてめぐり合ったのが『武士道』の一書でした。

■英文で書かれた原文

新渡戸先生の『武士道』は、「日本の魂」を外国人に理解させるためにアメリカで英文で書かれたもので、一八九九年に初版が刊行されるや、世界中で大好評を受け、国際社会にデビューしたばかりの日本の声価を一気に高めています。

アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領がこれを読んで大感激し、数百冊を購入して世界各国の要人に一読を薦めていた話はよく知られていますが、高校時代の私にとってこの書は、まさに『衣装哲学』を止揚(アーフヘ―ベン)するものであり、死生観に関する私の疑問に明快な解答を与えてくれるものでした。

例えばここに出てくる本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」や、吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」といった和歌などは、人間は死んだ気になって全力疾走すれば、どのようなことでも成し遂げることができるということや、「生きるための死」というものを私に教えてくれました。

『武士道』で新渡戸先生は、武士道の徳目としてまず「義」を挙げています。

「義」とは一言で言えば卑劣な行動を忌むということです。そしてそれは個人や「私」的なレベルに閉じ込めるべきものではなく、必ず「公」のレベルにまで引き上げて受け止めなければならない観念です。

そして次は「勇」です。「勇」は「義」と密接に結び付くもので、義のためではない勇気など全く価値がありません。昭和天皇の「降り積もる深雪に耐えて色変えぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ」の御製(ぎょせい、天子のつくった詩歌)などは、まさにこの「勇」と「義」を止揚するものにほかなりません。

更には愛である「仁」があります。そしてそれと密接に結び付くもの、つまり他人の感情を尊敬することから生じる謙虚、慇懃(いんぎん、丁寧で礼儀正しいこと)の心である「礼」があり、「礼」には絶対不可欠なものとして「誠」を挙げています。

そして日本人が人倫の最高位に据えてきた、名誉の掟というべき「忠」があります。このような徳目が不即不離のものとして渾然一体となったものが武士道であると新渡戸先生は説いているのです。

私は『武士道』を読み、日本人の、あるいは人間の気高い生き方を学んだのでした。総統として新たな台湾の国造りを進める中でも、『武士道』で学んだ徳目は常に私を支えてくれていたのでした。

武士道という言葉が一般に定着したのは実は明治時代後半のことで、新渡戸先生の『武士道』の刊行などは、その契機になっていたようです。

もともと「武士道」なるものが形成されたのは江戸時代のことです。
天下泰平の世においてサムライの戦闘精神が文化的に形式主義の磨きをかけられたものがそれでした。これに対して新渡戸先生の『武士道』が説くところのものは広義の武士道とでも言うべきものです。

つまり副題に「日本の精神」とあるように、武士を中心とする日本人の精神一般についてなのです。

■日本精神の結晶

世界に誇る日本精神の結晶というべき武士道の形成について新渡戸先生は、日本で営々と積み上げられてきた歴史、伝統、哲学、風俗、習慣があったからこそだと言っています。

もちろん武士道の淵源(えんげん、みなもとのこと)の一つとして中国の儒教の影響も挙げられますが、実際は中国文化の影響を受ける以前からの、大和民族固有のものだと論じています。

死生観の上から言えば、儒教には「死と復活」という契機が希薄で、物事を否定するという契機がありません。だから儒教は「生」に対する積極的な肯定ばかりが強くなるという危険を孕むものです。

善悪を定めた道徳ではありながら、死生観をはっきりさせていないため、人間個々の生きる意義と、そこに建てられる道徳との間にかなりのずれが生じているのです。

儒教は「文字で書かれた宗教」とも言われ、所詮は科挙制度とともに皇帝型権力を支えるイデオロギーでしかなく、空想の理想社会を語るだけで人民の心に平安をもたらすものにはなりませんでした。

そのようなものを大切に推し戴いてきた中国人は、結局空虚なスローガンに踊らされ、それで満足してしまう。あるいは面子ばかりにこだわり何の問題の解決もできないばかりか、かえって価値観を錯乱させてしまう訳です。

新渡戸先生はクリスチャンです。彼は士族出身でもあり儒教的な教養を積んできた訳ですが、結局は儒教における死生観の不在から、キリスト教に道を求めたのではないかと思います。

そしてキリスト教という新たな道徳体系の下で、武家時代の物理的かつ現実的な権力を維持するための狭義の武士道ではなく、精神的かつ理想的な生き方を追求するためにある、しかも未来永劫に通じる道徳規範としての、広い意味での「武士道」の価値を再発見したのです。

彼によって再発見された「武士道」は、日本人の不言実行あるのみの美徳であり、「公」と「私」を明確に分離した、「公に奉じるの精神」とも言って良いでしょう。もちろんそれは中国文化とは全く異質のものです。ここで注目すべきことは、この「武士道」には教義も成文法もないということです。

あるものと言えば有名な武士や学者のわずかな格言などだけなのですが、これは一体何を意味しているかと言えば、つまりそれほどまでに「武士道」が、すでに日本人の血となり肉となって定着していたということでなのでしょう。


■義を見てせざるは勇なきなり

新渡戸先生はかつて台湾総督府の農業指導の技官として台湾の製糖業などの発展に尽くされた台湾の近代産業振興における最大の功労者の一人でもあるのですが、彼自身、当時は見事なまでに武士道の精華を放っているのです。

新渡戸先生は台湾に来られる前は札幌農学校の教授でしたが、健康状態が相当悪く、療養のためアメリカに滞在していました。そこへ台湾の児玉源太郎総督と後藤新平民政長官から招聘(しょうへい)されたのです。それは日本の台湾統治が開始してまだ五年目の一九〇〇年のことでした。

技官というのはせいぜい地方の課長です。それでも彼は、国家のために「義を見てせざるは勇なきなり」との武士道精神で従容(しょうよう、落ち着いていること)としてこのポストに赴いたのです。

そしてひとたび現地入りした後は、まだまだ近代建設すら行われていなかった台湾の経済的自立を実現すべく、滅私奉公で邁進したのです。地位の高い低いではなく、「実際に何をやったか」が彼にとっては重要だったということでしょう。

新渡戸先生がまず台湾島内を周った結果、着目したのが製糖産業でした。そこで砂糖の品種改良、栽培法、加工法に関する「精糖改良意見書」を書き上げます。

それに基づいて臨時台湾糖務局が開設され、彼はその初代局長に就任しました。そして数年の内に台湾の砂糖の生産高は三倍になりました。それまで外国からの輸入に頼っていた日本国内の砂糖の需要も、これで完全に満たされるようになりました。

彼は在台三年目で京都大学教授となり、台湾を離れたものの、一年に一回は台湾に戻って指導を続け、その結果台湾の製糖業はますます発展し、台湾は砂糖王国と呼ばれるまでになります。

生産高の向上は、昭和初年の時点で世界最大のハワイに迫るほどの勢いでした。私が旧制の京都大学に進んで農業経済学の分野に生涯を捧げようと決意したのも、そのような新渡戸先生の気高い奉仕精神に傾倒していたからにほかなりません。

総統就任後も、私の政治哲学や言動を支配していたのは「新渡戸精神」だったという気がします。日本統治下の台湾近代化で、武士道の精神を発揮したのは何も新渡戸先生だけではありません。

先日私が慶応大学での講演で紹介するつもりだった八田与一氏にしても同様です。八田氏は東洋一の灌漑土木工事を行って一万五千キロの水路である嘉南大土川を完成させ、台湾に広大な穀倉地帯を現出させた土木技師です。彼は抜群に優秀な技術者だっただけではなく、人間としても非常に優れた人物で、階級や人種で人を差別せず、常に農民の生活を思いやっていました。

彼のそのような思いの中には、日本の伝統的価値観である「公議」、つまり「ソーシャル・ジャスティス」があったのです。

このような日本人官吏の「公に奉じる精神」は、下は学校の教員に至るまで普遍的に持たれていたというのが事実なのです。私たちの世代の台湾人が親日的といわれるのも、当時日本人が台湾のためにいかに献身的な努力を払っていたかを知っているからです。


⇒続編

(原本) 但し、原本はPDFでしたが、今は削除されています。