二軒茶屋中村楼の480年の歴史


元日の昼食は、八坂神社の正面に佇む南楼門と石鳥居の間の境内にある二軒茶屋中村楼に入り、迎春の昼会席です。

献立と料理を述べる前に、この中村楼の歴史について述べておこうと思います。何しろ、京都の料亭では、最古の歴史を誇る故です。

尚、私が中村楼に最初に行ったのは、1965年ですから、今から半世紀前の54年前のことになります。


京料理 二軒茶屋 中村楼(なかむらろう)


住所:京都市東山区祇園町八坂神社鳥居内
八坂神社南門の参道脇にある老舗。

●中村楼の創業は室町末期。
四八○年の室町末期に門前茶屋として創業。八坂神社の表参道に二軒の茶屋(現在の中村楼と藤家)が向かい合い「二軒茶屋」と呼び親しまれていました。


当初は門前の水茶屋を営み、名物の田楽豆腐(註1)を供し、やがて豆腐料理や、菜飯、酒を供して、江戸末期には京都屈指の料理茶屋のひとつになりました。

(註1)田楽豆腐(でんがくとうふ)
イメージ 1

木の芽味噌を塗った木綿豆腐を松葉串に刺して炭火で焼く。焼いた豆腐は昔ながらの塗りの箱に収めて、お客様の前へ。

二軒茶屋十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中に描写されたほか、オランダ出島の商館長が田楽豆腐を好み、いつも立ち寄っていたとされます」(二軒茶屋中村楼12代目店主・辻 雅光さん)


京都の観光地や名物食べ物を紹介した江戸時代後期のガイドブック『拾遺(しゅうい)都名所図解』(上記の画像)には八坂神社参道の茶店が名物祇園豆腐(田楽豆腐)を求める人々で賑わっている様子が描かれています。

豆腐を薄切りにする女性の早業も人気となり、その様子を一目見ようとする姿が描かれています。。(KEIHAN)

門前の水茶屋として二軒茶屋中村楼が何故に流行っていたかの元来の理由の一つを、二軒茶屋の一つ中村楼のはす向かいにかってあった同じくもう一つの二軒茶屋藤家の井戸の跡地に建てられた案内看板で知ることが出来ます。

* - * - * - * - *
藤家と空也上人ゆかりの井戸の看板案内文

この場所には、明治初期まで藤家という茶店があった。店の傍らに藤棚があったので屋号を藤家と称した。

(画像)井の清水の井戸

屋号の初代は、この井の清水を沸かし、当社参詣(さんけい)の諸人に呈した。爾来、参詣者はこの白湯を呑み、身を清めてから参拝したので、きよめの茶屋とも呼ばれた。

延長(925)のむかし、時の醍醐帝が疱瘡(ほうそう)に罹られ、諸人も病で苦しんだ。

その惨状をみかねた空也上人は、当社に参篭(さんろう)し、帝、また諸人の病気平癒(へいゆ)を祈念した。

その時上人はこの井の清水を用いた白湯(さゆ)を諸人に施し、それを呑む人々は癒(いや)されたという。

のち、向かいにもう一軒の茶店が出来(現在の中村楼)、鳥居の内のこの二軒の茶店は、二軒茶屋と呼ばれ、人々に親しまれた。

(注)中村楼の二軒茶屋の方の店内にも、室町時代から使用された井戸が現存している。

(注)『拾遺(しゅうい)都名所図解』によると、比叡山の阿閣梨(あじゃり・徳の高い僧)が洛中に来た際には、ここ二軒茶屋に立ち寄って昼ごはんを取るのが慣例になっていた。
* - * - * - * - *

もともとは柏屋と呼ばれていたが、明治維新の頃は中村屋と言い、向かい側の藤屋と共に二軒茶屋と呼ばれていました。この二軒茶屋は端唄(はうた)(註2)『京の四季』をはじめ、小唄 「四条の橋」でも唄われました。

(註2)端唄(はうた)
長唄(ながうた)などに対し、短い(=端)俗謡。江戸時代末期の江戸庶民の間で流行した三味線音楽。短い歌詞を三味線にのせて歌うスタイルで、「小唄」と共通する歌詞も多く、よく姉妹の関係にたとえられます。幕末には江戸市中に稽古所が開かれ、数多くの愛好家グループが生まれては、花を競いました。
* - * - * - * - *

小唄 「四条の橋」

歌詞
「四条の橋から灯が一つ見ゆる
あれは二軒茶屋の灯か
あれは二軒茶屋の灯か
円山の灯か そうじゃえ 
ウーイそうじゃいな~」
(二番以降省略)

この小唄 「四条の橋」は明治初期の作。
(画像)「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」十一段目

仮名手本忠臣蔵」七段目の劇中、初代中村吉衛門(明治十九年~昭和二十九年)の大星由良之助(大石内蔵助(おおいしくらのすけ))が、息子の力弥が塩冶判官の正室顔世御前の密書を持って来たのを、周囲に気を配りながら取りに行く花道で唄って以来、七段目の芝居と切ってもきれぬ小唄となりました。

(画像)「仮名手本忠臣蔵」七段目・祇園一力茶屋の場面

唄の趣旨は、いよいよ江戸への出発も近くなり秋色も深まった一日、京の見納めにと、芸妓達を連れて四条の橋へ夜景を見に出かけたときのこと。

「あれは二軒茶屋の灯か、円山の灯か」は芸妓達の、「ウーイそうじゃえ」は由良之助の、「そうじゃえ」は芸妓達の声です。
* - * - * - * - *

端唄(はうた)「京の四季」
上方端唄。文久(1862~1864)前後の流行で 祇園で遊んでいた儒教の学者、中島棕隠(そういん)の作詞によるとされています。

京都の祇園を中心に 東山、圓山(まるやま)の風物を点景に詠み込み、京都らしい優美さと落ち着いた趣を思わせます。

(歌詞前半)
春は花
いざ見にでんせ 東山
色香あらそう 夜桜や
浮かれ浮かれて
粋も無粋も ものがたい

二本差しても 柔らこう
祇園豆腐の 二軒茶屋(註3)
みそぎぞ 夏は うち連れて
川原につどう 夕涼み
よいよい よいよい
よいやさ

(註3)
祇園豆腐の二軒茶屋」とは、当時八坂神社の表参道にあった二軒のお茶屋さん。そこでは先が二本に割れた竹串を木綿豆腐に刺して味噌を塗って焼いた田楽豆腐が名物でした。

二本刺しても」は、侍が腰に刀を二本差しているのになぞらえて、「お堅いお武家様と同じ二本差しでも、祇園の豆腐は柔らかい」という洒落(しゃれ)です。

(ユーチューブ)前半

(歌詞後半)
真葛ヶ原(まくずがはら)に そよそよと(註4)
秋は色ます 華頂山(かちょうざん)(註5)
時雨をいとう から傘に
濡れて紅葉の 長楽寺(註6)(註7)

(註4)(註5)(註6)
真葛ヶ原、華頂山、長楽寺はいずれも、円山公園知恩院のあたりです。「華頂山」は京都の「知恩院(ちおんいん)」の山号で、「華頂山知恩教院大谷寺」と称します。かつてこの辺りは真葛や蒲(がま)、茅(かや)が一面に茂る原野だったため「真葛ヶ原」と呼ばれていました。従って、秋の色深まるこのあたりの風景を「真葛ヶ原に そよそよと秋は色ます華頂山(かちょうざん)」と詠まれたのです。

(註7)
降ったり止んだりの秋の雨はうっとおしいものですが、唐傘(からかさ)越しにふと見える、しっとり濡れた紅葉の風景もよいものです。

思いぞ積もる円山に
今朝も来て見る 雪見酒
そして櫓(やぐら)のさし向かい(註8)
よいよい よいよい
よいやさ

(註8)
差し向かいの櫓(やぐら)は、やぐらごたつとも、京都の芝居小屋の北座と南座の櫓のこととも言われます。

(ユーチューブ後半)

端唄(はうた)「京の四季」の歌詞と解説
* - * - * - * - *

二軒茶屋中村楼には、明治維新の頃は宮家、政財界、文人墨客などが集うようになります。祇園祭にまつわる行事が行われることでも有名です。明治期の料亭建築の本館と総檜造りの貴賓館とを結ぶ、渡り廊下が風情を醸します。

尾形光琳の襖絵をはじめ、随所に配された著名な作家の書画からも、その歴史と格調の高さが窺えます。(注)但し、改装後の今は、尾形光琳の襖絵はありません。

⇒中村楼:京料理:迎春の昼会席へ続く


※ 元日の初詣は八坂神社へ2019/1/4(金)
※ 帰路:元日八坂神社初詣2019/1/6(日)

(引用抜粋記事並びに画像)
花伝舎 端唄(はうた)の概要
仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)七段目 祇園一力茶屋の場
仮名手本忠臣蔵 十一段目 歌川芳滝
(参考)仮名手本忠臣蔵あらすじ