変遷する靖国神社とは
今回の記事は靖国神社の改めての復習であるとも言える。
ここでの記事はあくまでも諸見解の中の一つであるが、私の賛否はさておいて、靖国神社を知るために敢えてこの視点から見た方が分かり易いので掲載した。
これまでの記事
『沖縄米軍基地:昭和天皇の要望』 2018/10/23(火)
(※)靖国神社の英霊
靖国神社本殿での祭神の神座は当初は英霊の1座であったが、1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。(ウィキペディアより)
以下、本文
(以下抜粋記事)
いうまでもなく、靖国神社(註1)は戦前・戦中の皇室を頂点とする国家神道の中枢であり、いわば「天皇の神社」だ。そのトップである宮司が、今上天皇が皇后と共に精力的に行ってきた各地への“慰霊の旅”を全面否定し、「靖国神社を潰そうとしている」と批判するとは、ただ事ではなかろう。
(註1)
実際、日経新聞が2006年7月20日付朝刊でスクープした通称「富田メモ」には、その心情が克明に記されていた。当時、昭和天皇の側近であった元宮内庁長官・富田朝彦が遺した1988年4月28日のメモの記述である。
〈私は或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ〉
その上で念を押すが、そもそも靖国神社という空間自体が、極めて政治的欺瞞に満ちたものだ。事実、靖国神社に祀られている「英霊」とは戦前の大日本帝国のご都合主義から選ばれたものであり、たとえば数十万人にも及ぶ空襲や原爆の死者などの戦災者は一切祀られていない。
だいたい、靖国の起源は、1869年、戊辰戦争での戦没者を弔うために建立された東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)だが、この時に合祀されたのは「官軍」側の戦死者だけであり、明治新政府らと対峙し「賊軍」(註2)とされた者たちは一切祀られていない。そのご都合主義的な明治政府の神聖化≒国家神道復活の野望は、靖国の人事にもあらわれている。
(註2)
小堀宮司の前任者である徳川康久前宮司(註3)は、今年2月末、5年以上もの任期を残して異例の退任をした。表向きは「一身上の都合」だが、“賊軍合祀”に前向きな発言をしたことが原因というのが衆目の一致するところだ。
徳川前宮司は徳川家の末裔で、いわば「賊軍」側の人間であった。徳川氏は、靖国神社の元禰宜(ねぎ、宮司の補佐役)で、神道政治連盟の事務局長などを歴任した宮澤佳廣氏らから名指しで批判され、結果、靖国の宮司を追われたのである。
(註3)
徳川という姓が示しているように、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜の曾孫にあたる。徳川宮司は、石油会社に勤務していたものの、退職後は芝東照宮に勤務していた。東照宮は、言うまでもなく、初大将軍の家康を祭神として祀る神社である。
考えてみれば、靖国神社の宮司に徳川将軍家につらなる人物が就任するのは奇妙である。というのも、靖国神社は、徳川幕府を打倒して明治政府を樹立した「官軍」の戦没者を祀る「東京招魂社」としてはじまったからである。
靖国神社は德川宮司時代の2015年、夏の『みたままつり』での露店出店を取りやめた。德川氏は「若者の境内でのマナーの悪さ」「静かで秩序ある参拝をしてほしい」などを理由に挙げていたが、実際、祭りに際した暴行や痴漢などの性的被害なども靖国内部で報告されていたという。
結果、参拝客が激減した(註4)のだが、その消えた露店が、小堀氏が宮司となった2018年に復活している。そのことからも連中の本音がうかがえよう。
(註4)
露店が出ていた時代、みたままつりの期間には30万人の参拝者があった。それが露店を急遽中止した2015年には半減し、同じく露店を中止した16年にも14年に比べると6割減とさらに減っている。
注目されるのは、参拝者の減少とともに、昇殿参拝者や遊就館の拝観者が2016年には14年の3割近くの減少に止まっていることだった。露店を目当てに来ていた参拝者も、意外と真摯な信仰や関心を抱いていたことになる。
(原文)
(靖国神社みたままつり画像)
(註1)~(註4)の青文字の記事
※昭和天皇が、通称「富田メモ」の通り松平宮司による14名のA級戦犯合祀以降靖国神社を参拝しない理由は別にある。それは合祀されたのが東京裁判で絞首刑になった七名も含み、内、六名はアジアでの欧米植民地を解放・独立へと導いた憎っくき大日本帝国陸軍だからである。(持論)
朝日新聞10/23(火)
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