北方領土問題を知ろう
当然と言えば当然で無理もないことだ。
アメリカ様の意向に反し、中国と国交回復した田中角栄首相は、追い落としのシナリオ・新型ジェット旅客気の選定をめぐるロッキード事件ではめられて頓挫。あの時の茶番劇・国会での名演技者達。記憶に御座いませんの元祖・小佐野賢治。全日空の大庭哲夫は善で若狭得治が悪の役割。
さて、北方領土とは!
日本国民の大半は無関心だが果たしてそれで・・・。
まぁ、然し、当然と言えば当然。
何しろ、島尻北方担当大臣が『歯舞』(はぼまい)を読めないのだから。
【図解・行政】日本の北方における領土の変遷
jiji.com
北方領土の日本統治は17世紀ごろ始まった。蝦夷地(北海道)を支配した松前藩が調査隊を派遣し、1644年には「クナシリ」「エトホロ」などの島名を記載した地図を幕府に提出。18世紀にロシアが南下を始めると、幕府は最上徳内らに調査させた上で択捉(エトロフ)島などに番所を設置している。
1855年の日露和親条約では、択捉(エトロフ)島とその北のウルップ島の間が国境として初めて明記され、4島を日本領と確定。明治維新後の75年、樺太千島交換条約でウルップ島から北の千島列島全島を、1905年のポーツマス条約で南樺太を獲得、4島は一貫して日本の版図だった。
日本が主権を回復した51年9月のサンフランシスコ講和条約署名の際、日本政府は「千島列島の権利、権原および請求権を放棄する」と宣言した。条約署名の前後、外務省の条約局長らが国会で「南千島は千島に含まれる」などと、北方四島を放棄したとも受け取れる答弁をしたこともある。
日露平和条約締結は日本の決断次第──そろそろ2島返還で決着の時だ
Newsweek 2018年9月14日(金)
(一部抜粋)
<プーチン発言はあながち間違っていない。日本政府はサンフランシスコ講和条約で国後・択捉を一度は放棄しているからだ>
プーチン露大統領が12日、ウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムで「年内の平和条約締結を」と発言したことが大きな波紋を呼んでいる。時事通信の記事によると、「プーチン氏が平和条約締結の期限を提案したのは初めて」(2018年9月12日付)とのこと。
また同記事中では、プーチン大統領の発言として、「プーチン氏は平和条約締結後に北方領土の色丹島と歯舞群島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言に言及した上で、「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張」とある。
(中略)
そしてこの路線のまま1955年から1956年まで、ロシアとの国交回復・平和条約交渉が開始される。以下、『日ソ国交回復秘録~北方領土交渉の真実~(松本俊一著、朝日新聞出版)"モスクワにかける 虹 日ソ国交回復秘録"から改題』は日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する。
そしてこの本の中で、紆余曲折はあったものの、当時、日本側の重光葵全権大使は、
「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、一週間ばかり経つと『事ここに至っては已むを得ないから、クナシリ、エトロフ島はあきらめて、平和条約を締結する』」といって来た。
出典:前掲書。強調筆者)
と、無念の思いは強いが、国後・択捉の両島を諦めて平和条約を併結する方針だったのである。
つまり日本は、サンフランシスコ講和条約によって国後・択捉を含む全千島列島を放棄したのだ、と政府自らが認めたのである。
ところが重光外相(鳩山一郎内閣)の態度はこの後急変し、国後・択捉・歯舞群島・色丹の「四島一括の帰属の確認」と強硬路線に転換した。なぜだろうか。公な文章にはなっていないものの、ここに冷戦下にあって日ソ和解を嫌うアメリカの横やり、つまり有名な「ダレス恫喝」が強く影響したのだ。
出典:前掲書
これが「ダレス恫喝」である。
態度を急変させた日本
この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、195年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる。
結局、『日ソ共同宣言』がなされ日ソの国交は回復したが、平和条約の締結ができないまま、この異常な状態が70年以上続いたまま現在に至る。
冒頭紹介したプーチン発言の"平和条約締結後に北方領土の色丹島と歯舞群島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言に言及した上で、「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張"という部分は、こういった意味で、ある意味正解ともいえるのである。
なぜなら日本政府は少なくとも「ダレス恫喝」の前までは、国後・択捉の放棄を渋々ながら承認し、2島返還で決着(重光)という方向に動いていたからだ。その方針を1956年2月以降、強硬路線に転換したのは日本自身だったからである。
千島列島の定義そのものを変更して対応
しかし、日本政府は、国後・択捉を放棄し、歯舞群島・色丹の「2島」だけで平和条約を締結するはずだった自らの主張が4島返還(帰属確認)に急変した理屈を、どのように合理的に説明したのだろうか。すでに述べた通り、サンフランシスコ講和条約によって国後・択捉を含む全千島列島を放棄したのだ、と政府自らが認めているのだからである。
そこで日本政府は、「千島列島」の定義そのものを変更した。日本政府における千島列島は「得撫(ウルップ)島から占守(シュムシュ)島」を指し、国後・択捉はそもそも「放棄した千島列島には入らない、国後・択捉は千島列島ではないのだ」、という奇術を考案したのである。そしてこれが、現在でも続く日本政府の一貫した公式見解である。
(全文)
m