未発見石器時代遺跡:由利本荘市
偶々見たニュースの画像。
この洞窟の入り口の雰囲気、昔の記憶にそっくり。
発見されるまでゴミ捨て場、総延長約4kmの旧海軍“秘密基地”
日刊工業新聞 5/5(土) 11:14配信
熊本・人吉海軍航空隊基地跡はなぜ“潜伏”できのか
「人吉海軍航空隊基地があったことが明らかになったのは2015年でした」(手柴智晴錦町企画観光課地域振興係)。旧海軍が本土決戦に備えて整備した施設のうち総面積約1万平方メートル、総延長約4キロメートルの地下施設など遺構の現存が分かった。(以下省略)
(私の記憶)
当時、中学生のガキ大将に従って、洞窟探検と称し、山里の端の洞窟にたどり着きました。彼らは持参したろうそくを点灯し洞窟の中に入って行き、私達も従いました。。
洞窟の入口はちょっと縦に長い四角形で、中は凹凸の無い白っぽい石壁で、奥行きは100mはあったと思います。
明らかに人が掘ったもの。青の洞門(註1)だと言いながら入ったのですが、ここは集落から離れた里の平地に迫った山の麓で、トンネルを必要とする地形ではなかったです。
無論、こうもりがいて、なかを飛び交っていました。
私と友達は奥に行くのは怖く途中で引き返したと思います。
(註1)青の洞門(あおのどうもん)
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同じく、このガキ大将に連れて行ったもらった古墳の記憶は、以前、書いていましたね。
改めて書き直すと、
1956年(昭和31年)頃の或る休日、我等チャンバラ友達の一人、斉藤(正)君と低木のみまだらに生えている山の中で枝を切っていました。
と、中学生を筆頭に、小学四年~六年の数人が、これから探検に深山に入ると言うのです。これは面白そうです。そこで、我等二人も従いました。
低いひと山越えて、更に低いひと山。けもの道ですから、草木をかき分け、道にかぶさる枝々に身をかがめて進みます。
途中、しばしば迷いながらもやがて、ぺんぺん草もまともに生えきれないまばらな背丈の低い草しか生えていない黄土色の台地にたどり着きました。
ここの土は、どうやら草木にとっては鬼門のようでした。土は、細かく砕けたようなもので、質は、当時の下川大内小学校(現、大内小)の道路を挟んだ向かい側の崖と同じでしたが、それよりももっと酸性度が強かったのでしょう。
中学のガキ大将の指揮下、地面をかがんで見ると明らかに普通の石ころではないものがパラパラ落ちています。中には、半分頭を出したものは枝でちょっと掘ると出てきました。
石器でした。
石の矢じりや刃物です。
私も4~5個拾いましたが、形の良くて4~5cmの良く切れそうな石の刃物2個のみを持ち帰りました。
形は三日月の台形石器です。
刃先などはすべすべして、まるで砥石で研磨したようでした。
今、改めて用途を考えると、どうやら稲穂の先をカットする道具だったのではないかと思います。
翌日、学校に持って行き、担任の先生に見せました。自慢げにね。
先生は、ふう~ん、と言ったのみです。
ですから、この秋田県由利地方に有る筈がないのですから、先生は無関心だったのも当然でした。
その石器は、暫くは自宅の机の中に入れていましたが、二個ともポキンと折ってしまい捨てました。残念です。
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2005年8月17日夕方新山の本荘(北)中学校の跡地に建つ資料館を訪問しました。展示物には、旧・下川大内村で発見された遺跡二ヶ所があり、館長と色々話をさせていただきました。
この旧・下川大内村の二箇所の遺跡(才の神遺跡と鹿爪遺跡)の場所はどう見ても我等の発見した場所とは違います。遠すぎるのです。
この台地の雰囲気は、下記の伊勢堂岱遺跡とよく似ています。
草木の無い平らな地面は台地になっていて、下方を見下ろせるのは片方向だけ。
それに手前は台地の先端の下から生えている草木で見えませんが、遠方の田んぼと低く連なる山々が遠くに見えました。
ひょっとして、この場所は、かって我らを連れて行ったガキ大将でしたら、今でも思い出すかも知れません。
何とかこの方を探し出し、新たな遺跡を発見したいものです。
〇才の神(さいのかみ)遺跡
〇鹿ノ爪(かのつめ)遺跡
(画像)
下堤G遺跡の旧石器
石器時代稲作図
レモン
(資料)