国民主権は絵にかいた餅


前稿に続き、谷口雅春著「私の日本憲法論」の一部を抜粋を以下に掲載する。

(前稿)
『現憲法での民主主義とは』

その前に改めてロスチャイルドの『世界征服へのシナリオ』 25ヶ条(25項目)世界革命行動計画の一部だけでも読むと現在の日本国憲法への理解が深まる。

1773年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが30歳の時、 フランクフルトに12人の実力者を招いて秘密会議を開いた。

初代ロスチャイルドは、その会議で全世界に対する絶対的な支配権を手中に収めるための 「25項目の行動計画書」から成っている「世界革命行動計画」について述べた。

その10番目
我々は「自由・平等・友愛(博愛)」という言葉を大衆に教え込んだ最初の民族である。今日に至るまで、この言葉は愚かな人々によって繰り返されてきた。

ゴイム(家畜の豚、ユダヤ人以外)は、賢者であると自称する者さえ、難解さゆえにこの言葉を理解できず、その言葉の意味とその相互関係の対立に気づくことさえない。 

「自由・平等・友愛(博愛)」のための場など自然界に存在しない。

これは我々の旗を掲げる軍隊を我々の指示と統制のもとに置く言葉である。

 ゴイムの自然発生的で世襲的な貴族社会の廃墟の上に、我々は金による貴族社会をつくりあげた。 それは我々の拠りどころ、すなわち富を参加資格とする貴族社会である。

(参考1)「平等」と「公平」との相違
例えば会社員が毎日出勤し、成果などに拘わらず同一賃金を貰うのが平等。能力や成果に応じて賃金を貰うのが公平。

(参考2)自由とか平等とか友愛(博愛)とか、解決されることがなく、然も両立しない概念(スローガン)を叫ぶ者が増えれば増えるほど、諸々の主張が混在し、対立しあい、国家は一つにまとまらず弱体化する。別な言い方をすると、このように叫ぶゴイム(豚)達の思考は単純で、自由とか平等とかを大義名分にしたら躊躇なく破壊や暴力行為に、無論それまでは戦争反対と唱えながらも真っ先に戦争に走れる。

(参考3)フランス共和国は、1789年7月14日に起きたバスティーユ牢獄への襲撃事件に端を発する一連の革命により成立した国家であり、『自由(Liberté、リベルテ)・平等(Égalité、エガリテ)・友愛(Fraternité、フラテルニテ)』という建国の理念が国の標語となっている。

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但し、この「自由・平等・友愛」の標語は革命のときに掲げられたものではなく、1848年、第2共和国憲法に規定された標語だった。(註1)

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尚、フランスの三色旗は、パリを象徴する赤と青の2色の徽章に、フランス国王旗の色である白を入れて作ったものだ。それは、国王と革命パリが手を握ったという意味で、「自由・平等・友愛」を意味するものではなかった。(註1)


以下、本文

●平等の権利・異る個性の矛盾
 
民主主義の考え方の中には、二つの矛盾の性格を孕んでいるのである。それは、すべての人間は「平等の自由と権利」をもっているということ。そして、すべての人間は「異る個性と考え方」をもっているということである。

この「平等の権利」の主張と「異る考え方」の主張とーこの二つの相反する主張を、国家という同一面の"場"に於いて調和せしめつつ生かさなければならないのが民主主義であり、それを調和せしめつつ、最大多数の国民が幸福になるように政策を進めて行くのが民主政治の要諦である。
・・・・省略・・・・

●"国民主権“は絵に描いたモチ
 
国民主権と議会制民主主義との間には根本的に矛盾が存在しているのである。国民ひとりひとりに主権があり、思想の自由、行動の自由、言論の自由表現の自由憲法の条項の上では許されているけれども、

国民ひとりひとりはことごとくその物の考え方が異るし、従ってまた思想も異り、その希望するところも異り、その希望を自由に表現しようと思うならば、必ず他の人々の希望の実現と衝突する事実にぶつからざるを得ないのである。

だから国民主権などというものは、単に絵に描いた餅みたいなものであって』実際には食べられる餅ではないのである。
・・・・中略・・・・

、現ある利益団体の代表者議会制民主主義による国会というものは、利益団体と利益団体との戦いの"場"であって、その利益団体が二つである場合には二大政党というふうになるし、
・・・・中略・・・・

主権をもつという国民ひとりひとりは置き去りにされていて、ほとんど何の意思表示もできないのである。
・・・・中略・・・
 
日本国憲法に定められた国民主権というものは、実際には、絵に描いた餅、又は作文の上に創作されたウソの主権であって、日本国憲法そのものが、実際には持ち得ない国民主権を持ち得る如く偽臓して作文されたものなのである。

●議会制民主主義の落ちつく先
 
現状に於いては利益団体と利益団体とがその利益を守るために論戦をする"場"が国会であるのであるから・策略を弄して(この策略の中には"金も含む)人数をより多く集めたものが統治の権力を握るわけであって、民主主義政治というものは、おおよそ、そんなものなのである。だから常に利害の対立があって、負けた方の政党は、この何とか相手の政党を倒してやろうと策略を練るのである。

だから民主主義国家に於いては、国そのものの繁栄よりも、各自の利益団体の利益と権カの維持に施政の目標がおかれることになり、国会も院外も総じて謀略者の利益及び権力の争奪のための戦場となるのである。そこで国会は国民の総意などは反映しない、
・・・・省略・・・・・
 
●人間を物質的単位として取扱う民主主義

戦後、アメリカが日本に移入した民主主義というもの最大の欠点は、それが霊的民主主義でなくして、唯物論的民主主義であるということである。

唯物論というものはすべての存在を素粒子又は分子・原子に還元して考える。それが水素であり、ヘリウムであり、酸素であり、炭素であるということは、原子核の構成とその周囲を旋回する電子の数によって定まる。それによって質量がはかられ原子番号が付せられる。

いろいろの性質の元素があるけれども、それは単に素粒子の数と配列の問題であって、みんな同じ単位の寄合いである。そこには特に何元素が高貴なというわけはないのである。それはただ数量的関係に過ぎないのである。
・・・・中略・・・

それゆえに君臣の義も、親子兄弟の義理もない、長幼の序もない、師と弟子との間には情誼もないのである。
・・・・中略・・・・

ロシア革命は、ケレンスキー将軍が、「将校も兵卒も平等の人間であるから、今後、兵卒は将校に敬礼しないでよろしい」といったことから端を発したと伝えられている。すべての人間は「物質の塊にすぎない肉体」であるから、どんなに偉そうに見えても皆平等である。
・・・・省略・・・・


(註1)フランス革命には「自由、平等、博愛」がない
東亜日報 Posted September. 24, 2005