現憲法での民主主義とは
偶々、50年前の谷口氏の著書の中の一部を垣間見た。昭和43年というと、私が二つ目の大学に入って間もないころである。
最初に入学した時は、高校を卒業したばかりで、大学のクラス仲間達は、政治的には全く無知な者同士だった。
語学やミニゼミの都度、教室にやってくるのが数名のヘルメットの連中。休憩時間から壇上を占め、拡声器でアジる。都度、授業時間に食い込む。時には授業時間の半分以上にも及ぶ。教授連中は、終わるまで横で沈黙しながら待つ。
私達は彼らの主張を逆手に取り、彼らに言及した。
『私達は学ぶ権利を持つと同時に、拒否する権利をも持つ』
『私達の権利を侵害、もしくは否定する論拠は何か』
この命題で激しい議論の応酬が為され、私達は論破し、彼らは敗退した。処が、翌週は彼らの幹部と称する連中がやってきて、再度、議論の応酬となった。結果、同様に論破し、私達クラスの総意として彼らの入室の拒否宣言を為す。
翌々週から、私たちクラスの教室のみが平穏に授業を始められたが、左右の他のクラスの教室では、相変わらず、授業開始後でも彼らの拡声器でアジる声が響き渡っていた。
(参考2)全共闘時代用語の基礎知識1960-1975 再建準備委員会
さて、本題
外人に国を倒す自由をみとめた現憲法
武藤貞一氏はまた一言われる。
「国家と個人主義とは絶対に両立すべからざるものだ。国家は共同の利益の結晶体で、すなわち公共体である。公共体は、大局的には個人の利益を防護するためのものだが、局部的には個人の犠牲の上に成立っている。権利義務の"義務"は犠牲と同意義である……」
その成立の経過手続きそのものから、日本弱体化のためにつくって占領軍が押しつけたものであるから、国家を防衛する戦力も交戦権もみとめていないのは無論であるが、国民が言論で国家を倒す自由や、革命教育を行って国家を倒す自由をみとめているのであるから、この憲法が存続する限り、日本国家は累卵(るいらん)の危機にさらされているのである。
外人をして「日本国を倒すための言論と教育の自由」をみとめしめた日本国憲法こそ、世界唯一の怪物というべきである。
美濃部東京都知事が、灘尾文部大臣(当時)のいうことをきかないで、知事の権限内のこととして、日本国覆減革命教育をほどこしている"朝鮮大学校"を公認したことは、"知事選挙のとき共産党・社会党(現民主党)に支持されて当選したのでそれらの党の突き上げによる"との説をなす者もあるが、そうかも知れない、そうでないかも知れないが、民主主義が"下剋上"主義であるかぎり、このことのあるのは当然のことである。
「民主主義は、当然のことながら、階級と秩序と倫理と情操を打破する。生徒の民主主義は、教師を同列の人間としてこれを軽蔑することであり、生徒が教師を殴りつけたり、監禁したりするのは、民主的エリートの行為として称賛されねばならないし、また、子が親を、弟が兄を、妻が夫を虐待することが民主的理念に適(かな)い、いやしくもこれを逆にして、子が親に、弟が兄に、妻が夫に服従したり敬愛したりすることは、甚だしき民主主義の背戻行為(はいれい)であって犯罪に等しい。
旧道徳、旧封建的、義理人情的な一切のものを踏みにじらなければ、民主主義とはいえない。民主主義とはそういうものなのである」
と武藤貞一氏は喝破(かっぱ)している。国家を愛し、国家を衛るところの国に対する忠誠などという精神は封建的であるから、自国をつぶす革命教育を行う外人学校を公認し、国家の文教方針を代表する文部省の指示に反して、外人がいやしくもその首都にいて革命教育を現に行いつつあるものを許す。この怪物の正体をわれわれはよく見きわめなければならない。
日本弱体化のために押しつけられた日本国憲法の下に於いては、国家は個人の利益を擁護するための組合組織に過ぎないのであるから、個人の利益及び思想・行動の自由は、国家の存在権に優先するのである。
国家が潰れようが、そんなことは個人の思想及び行動の白由の前には、顧慮する必要がない建前になっているのが現行の民主憲法なのである。