近衛文麿の犯罪の記事への註釈文


下記の記事文中への新たな私見註釈文のみを別途の記事にしました。
共産主義者近衛文麿の犯罪 2014/2/19(水) 』


その前に、
近衛文麿の経歴

経歴  (文中、カッコの青文字は私が追記したもの)
ピクシブ百科事典より

明治24年、近衛篤麿公爵の長男として東京に生まれた。 第一高等学校に在学中、社会科学に興味を持ち、東京大学哲学科を経て、のち京都大学法科にて共産主義の)河上肇に学んだ。 

大正6年に卒業後内務省に入り、大正8年にベルサイユ講和会議に出席したのがきっかけで、西園寺公望に認められた。 

また貴族院議員となり、西園寺の後継者として誰もが認めるようになっていった。 昭和6年貴族院副議長、昭和8年には早くも議長に就任した。 時あたかも満洲事変が勃発するなど、昭和初期の動乱がまさに始まろうとする時期であったが、この時にあたって軍閥、官僚、政党三者の間にあって、彼の言う「空漠たる声望」により次第に政治の中枢へと駆り出されていった。 

昭和11年二・二六事件後の組閣を元老西園寺から勧められたが固辞し、翌12年、林銑十郎内閣の瓦解後、元老、重臣に推されてついに内閣総理大臣となった。 

第一次近衛内閣が成立した直後、盧溝橋事件が起こり、それを支那事変にまで拡大し、中国の抗戦に遭って泥沼化していった。 その後平沼騏一郎・阿部信行・米内光政による三内閣を経たが、第二次世界大戦を迎えた難しい情勢にあって、いずれも短期間で終わった。 

昭和15年、軍部の要望等により第二次近衛内閣を組織した。 ドイツに呼応して、東南アジアにおけるイギリス、フランス、オランダの植民地を解放しようとする大東亜共栄圏設立をスローガンとして発足。 

国内では、一国一党を目指す大政翼賛会を結成し、国外では日本、ドイツ、イタリアの三国同盟を締結、対米関係を緊張関係にまで至らせた。 

昭和16年にいったん総辞職の後、第三次近衛内閣を組織。 しかし東条英機陸軍大臣に日米開戦の責任を押し付けるような形で10月に退陣。 その後日本は大東亜戦争を起こすことになる。 

このような重要時期における数々の国是決定は、育ちの良い「お坊ちゃま育ち」であるがゆえの粘りのなさ、人の良さが悪い方向に出たものであるともいえる。近衛を首相に推挙した西園寺公望は、彼を首相に推薦したことを最後まで後悔していたという。 

終戦後しばらく、近衛は内大臣御用掛として憲法改正に専念。 英国風の立憲君主国を目指したが、連合国から日本を戦争に導いた責任を追及されA級戦犯の逮捕令を受けるに及ぶ。 

昭和20年12月16日、萩外荘で服毒自殺を遂げ、貴族の誇りを保った。享年55。 (注、自殺ではない。薬殺された)

余談ではあるが、五摂家筆頭当主として、華族出身の政治家としてもとりわけ別格の扱いを受けた。

昭和天皇の前でも足組みが許されるほどであったという。後に昭和天皇は近衛の死に際して「近衛は弱いね」と漏らされたという。 


さて本題


(註1)(註3)
近衛文麿ソ連に送り込んだ長男・文隆は吉田茂の指令によってソ連に抑留され、日ソ国交回復と同時に薬殺された。

(註2)
近衛文麿元首相はA級戦犯としてGHQにより逮捕指令を受け、昭和20年12月16日、巣鴨プリズンに投獄にされたら全てを話す決意を固めていた。

全てとは、1941年12月9日の真珠湾爆撃の指令を出したのは昭和天皇であるということ。戦時中、昭和天皇は石油輸送船の大株主などで大儲けしたこと。終戦間際に天皇の財宝を潜水艦で、然も、連合軍に見守られながら、敵国の制海権の各地の港で給油し、南シナ海、インド洋、スエズ運河、地中海経由でイタリアへと輸送したこと。米国が原爆を広島・長崎に落とすまで全面降伏の日時を8月15日まで延ばしたこと等をも含む。

これを知った白洲次郎は「近衛が自殺する」という噂を流した。そして近衛文麿は服毒自殺ではなく薬殺された。指令を出したの吉田茂麻生太郎の祖父)昭和天皇である。

逮捕前日の15日、自殺を思いとどまるように説得を試みたと言う複数の証言(松本重治は二時間)があるが、その説得とは、自殺防止のためではなく、投獄中や東京裁判天皇の戦争責任を免れるために本当のことを言うなという説得である。然し、近衛文麿はそれに同意しなかった。

松本重治『<聞書>わが心の自叙伝』 聞き手・加固寛子(1992年初版 講談社)の中で、松本氏は次のように述べているが、これは明らかに捏造である。

近衛さんは集まっていた人(後藤隆之介とか山本有三など)みんなにウイスキーをついでまわっていた。”別れの杯”のつもりだったのだろう。人びとが帰ってしまって、友さん(牛場友彦)と私は近衛さんの隣の部屋で寝た。翌朝六時ごろ、千代子夫人が友さんを呼んで「やっぱりやりましたよ」と言った。死に顔は安らかであった。

逮捕前日、松本氏はここでの別れの杯を自殺故にと述べているが意味が違う。自殺ではなく、巣鴨プリズムに投獄され、そして東京裁判で絞首刑による永遠の別れか、それとも長期間の獄中での暫しの別れに対しての杯である。

それに「翌朝(16日朝)六時ごろ、千代子夫人が友さんを呼んで『やっぱりやりましたよ』と言った」とのことだが、自分の亭主が死んだのに、女房のこんな言い方は異常としか言いようがない。まさに他人事である。

そもそも強アルカリ性の青酸カリを服用すると、酸性の胃酸と反応(加水分解)し、発生した青酸ガスが血液中の酸化酵素と結合するため、呼吸困難に陥る。死因は窒息死。つまり青酸が吸収されるまでに時間がかかるので、この間、もがき苦しむこととなる。但し、血液は鮮紅色となるため綺麗な死に顔となる。

ここでの問題点は、15日夜、近衛文麿の隣室に寝たのが松本重治と牛場友彦である。隣室での近衛文麿の異常な苦しみの呻きが聞こえないはずはない。ましてや、彼らの弁によると、その夜、近衛文麿は自殺予告をしていたのだから尚更耳をそば立てていたはずである。

16日の朝、千代子夫人が穏やかに「やっぱりやりましたよ」と言ったのが事実とすれば、亭主が青酸カリを飲む時に同じ寝室で見届けたことになる。果たして時代が違うとは言え、亭主が自殺するのを沈着冷静に、寧ろ、自殺幇助までする女房がいるであろうか。

やはり千代子夫人は亭主が死ぬことを知らなかったし、千代子夫人の言葉も事実では無く、泣き伏したのが正解であろう。

改めて言うと、殺害方法は、深夜、酒に酔って熟睡している文麿の口に青酸カリを流し込んだのが隣室の松本重治と牛場友彦であるとしたら、つじつまが合う。

皆が帰ったのに、二人がわざわざ隣室に宿泊したのは、名目上、千代子夫人の同意を得、文麿の自殺見届け人として、とでも言いたいのであろうか。

では千代子夫人は何故に否定や反論しないかというと、亭主が薬殺された後、「もしも事実を喋ると、家族のみならず一族郎党全員を皆殺しにするぞ」と脅されたからであろう。

この状況は、自民党衆議院議員で元財務大臣中川昭一氏の自宅のベッドでの死となんとなく類似している。

明治維新の時もそうだが、戦前・戦中・戦後の歴史は、GHQに与(くみ)する者たちによって書き換えられ、或は捏造されてきている。