偽装:『アンネの日記』密告人探し


現在、ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されていますし、人種差別禁止法を名目に「ホロコースト(大量虐殺)否定」を取り締まる国もあります。拠って、『アンネの日記』に疑問や否定する意見を書いたり述べたりすることも禁止されています。


証人をでっち上げてどうするの?

アンネ・フランク拘束の真相は FBI元捜査官ら調査へ
NHK 10月5日 6時44分

アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの隠れ家を秘密警察に密告した人がいたかどうか、アメリカのFBI連邦捜査局の元捜査官らでつくるチームが調査を始めることになり注目を集めています。(中略)

イメージ 1

アンネが秘密警察に見つかった理由については、何者かが秘密警察に密告したという説や、秘密警察が偶然見つけたという説があり、戦後、オランダの警察が捜査しましたが、真相は明らかになっていません。

これについてアメリカのFBI連邦捜査局の元捜査官ら趣旨に賛同した20人がチームをつくり、真相を究明する調査を始めることになりました。

イメージ 2

調査では、秘密警察とその協力者の名簿など、アメリ国立公文書館で新たに見つかった大量の資料をFBIで用いられている手法も活用し調べていくということです。(中略)

調査チームはアンネが拘束されてから75年となる2019年8月に結果を公表することを目指すということで、真相が究明されるのか注目を集めています。


生年月日1929年6月12日 - 死亡日1945年3月上旬)

1942年7月6日(13歳)に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入る。
ここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。(画像)隠れ家でのアンネ。1942年10月10日

1944年8月4日(15歳)にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送され、アンネも姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。処が、7ヶ月半後の1945年3月上旬、アンネはチフスに罹患して15歳にしてその命を落とした。

隠れ家には、アンネがオランダ語で付けていた日記が残されていた。オットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。8人の隠れ家住人の中でただ一人、戦後まで生き延びた父のオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。 

イメージ 3
アンネの日記とは:1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日に、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった。

アンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし、その日、最初の日記をつけ、以降、15歳までの2年2ヶ月間の記録である。(ウィキペディアより一部抜粋)



アンネの日記」はおっちゃんが書いた小説  2012/1/20(金)

アンネの日記」は少女アンネ・フランクが書いたものではなく、ユダヤアメリカ人作家メイヤー・レビン(男性)がアンネ、又はアメリカの少女の誰かの日記を参考にし、捏造して創作した小説。
 
依頼者は、アンネの父、ユダヤ系ドイツ人、オットー・ハインリヒ・フランク。

このアンネの父親のオットー・フランクは5万ドルという大金(現在の貨幣価値で約2億円)を払ってまで、ゴーストライターのメイヤーに娘の名前で小説を書かせた。


アンネの日記」は作家メイヤーが書いた小説であることを確実に証明できるものは、ニューヨーク最高裁判所の判決文で、書類番号は「2241ー1956」。この書類ファイルを果たしてFBI・OB達は発見するのか。

More than five years ago the Swedish journal Fria Ord published two articles commenting on The Diary Of Anne Frank.A condensation of these articles appeared in the April 15, 1959 issue of Economic Council Letter, as follows:(中略)Any informed literary inspection of this book would have shown it to have been impossible as the work of a teenager.

5年以上前(1950年代中頃)、スウェーデンの雑誌『Fria Ord』は「アンネの日記」について2つの記事を発表しました。この二つの記事をまとめたものが、1959年4月15日の経済理事会文書に次のように掲載されました。(中略)この日記を文学的に綿密に調査すると、10代の女の子が書くには不可能であるということを示したでしょう。

アンネの日記」の作者メイヤーは、「アンネの日記」が大ヒットするにつれ欲?で最初にもらった原稿料5万ドルに飽き足らず、日記が生み出す利益の供与(更に5万ドル)を主張するようになりました。
 
版権は本来なら父のオットーに有るのですが、メイヤーが版権を主張したため、両者は対立。

A noteworthy decision of the New York Supreme Court confirms this point of view, in that the well known American Jewish writer, Meyer Levin, has been awarded $50,000 to be paid him by the father of Anne Frank as an honorarium for Levin's work on the "Anne Frank Diary."

ニューヨーク最高裁判所の注目すべき判決は、この見解を裏付けるものです。それは有名なアメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビン(Meyer Levin)は、アンネの父親からメイヤーの「アンネの日記」著作の謝礼として50,000ドルを貰っていたことです。

即ち、メイヤーは最高裁判所で自分が版権を持つことを主張するために、自分がゴーストライターとしてアンネの日記を書いたことを暴露してしまいました。

Lawyers Evasive
Inquiry of the County Clerk, New York County, as to the facts of the case referred to in the Swedish press, brought a reply on April 23, 1962, giving the name of a New York firm of lawyers as "attorneys for the respondent." Reference was to "The Dairy of Anne Frank 2203-58."wyers Evasive

スウェーデンの報道に記載された事件の事実(アンネの日記はメイヤーが書いたこと)に関するニューヨーク州郡庁書記官の問い合わせに、ニューヨークの弁護士社名「被告の代理人」は1962年4月23日に回答しました。 " 参考文献「The Anair of Anne Frank 2203-58」

A letter to this firm brought a response on May 4, 1962 that "Although we represent Mr. Levin in other matters, we had nothing to do with the Anne Frank case."

この弁護士会社からの手紙では、1962年5月4日に「我々が他の問題でメイヤー・レビン氏の代理をしているが、アンネ・フランク事件とは何の関係もない」との回答でした。

On May 7, 1962, came the following reply from a member of a firm of New York lawyers to whom the original inquiry had been forwarded:

1962年5月7日、元の問い合わせが送られたニューヨークの弁護士会社のメンバーから次のような返事がありました。

It was the attorney for Meyer Levin in his action against Otto Frank and others. It is true that a jury awarded Mr. Levin $50,000, in damages, as indicated in your letter. That award was later set aside by the trial justice, Hon. Samuel C. Coleman, on the ground that the damages had not been proved in the manner required by law. The action was subsequently settled, while an appeal from Judge Coleman's decision was pending.

それはオットーフランクとの訴訟を担当したメイヤーレビンの弁護士でした。

あなたの手紙に示されているように、陪審員が50,000ドルの損害賠償を裁定したことは事実です。その裁定は、その後法律で要求されていた方法で証明されていなかったという理由で、裁判官、サミュエル コールマンによって破棄されました。その後、訴訟は解決されましたが、コールマン裁判官の判決からの控訴は係属中でした。

I am afraid that the case itself is not officially reported, so far as the trial itself, or even Judge Coleman's decision, is concerned. Certain procedural matters were reported, both in 141 New York Supplement, Second Series 170, and in 5 Second Series 181. The correct file number in the New York County Clerk's office is 2241-1956 and the file is probably a large and full one which must include Judge Coleman's decision. Unfortunately, our file is in storage and I cannot, locate a copy of that decision as it appeared in the New York Law Journal early in the year 1960.

私は、事件そのものが公式に報告されていないことは恐れています。審理そのもの、あるいはコールマン裁判官の判決さえ憂慮している限りです。 ニューヨーク附属書第141号、第2シリーズ170、第5シリーズ第181号のいずれにおいても、手続き上の問題が報告されています。

ニューヨーク郡書記事務所の正しいファイル番号は2241-1956であり、ファイルは恐らく裁判官コールマンの判決文を必ず含んでいる大規模かつ完全なものです。 残念ながら、私たちのファイルは保管されていますが、1960年の早い時期にニューヨーク法律誌に掲載されたその判決文のコピーを見つけることはできません。

ニューヨーク最高裁判所の判決のファイル番号は「2241ー1956」であり、ニューヨークの地方事務所になければならないのですが、何故か、このファイルは現在紛失してしまっています。原因は不明。調査しようとすると何者かの圧力がかかり調査は続行不能となるのです。

Institute for Historical Review

以下は、1980年10月9日のニューヨーク・ポストには、エルンスト・ロエマーなる人物が「アンネの日記」は真実ではなく、フィクションである事を追及し続け、裁判に持ち込んだ記事です。そして、二度目の裁判で彼の主張は正当であると認められ、アンネの日記は、アンネが死亡後に書かれたものであるとしました。

1980年ドイツの裁判所でも、「アンネの日記」を化学分析した結果、日記が書かれたのは、アンネの死後であることが証明されていた。

Anne Frank may not have inked that famous diary
アンネ・フランクはその有名な日記を書いていないだろう
- Al Fredricks, New York Post, October 9, 1980
- アル・フレッドリックス ニューヨークポスト祇 1980年10月9日

A REPORT by the German Federal Criminal Investigation Bureau (BKA) indicates that portions of The Diary of Anne Frank had been altered or added after 1951, casting doubt over the authenticity of the entire work, the West German news weekly Der Spiegel has disclosed.(中略)

 ドイツ連邦刑事捜査局(BKA)の 報道によると 、アンネ・フランクの日記の 部分は 、1951年以降に変更されたか追加され、全作業の真正性に疑問を呈していると、西ドイツのニュース週刊誌デア・シュピーゲル(Der Spiegel)が明らかにした。(中略)

The manuscript was examined on orders of a West German court as of a libel action brought by Otto Frank , Anne's father and the only family member to survive the concentration camps, against Ernst Roemer for spreading the allegation the book was a fraud.

この手書きの日記は、アンネの父であり強制収容所で生き残った唯一の家族であるオットー・フランクが、「アンネの日記偽書である」と主張するエルンスト・ロエマーを名誉毀損で訴えた訴訟で、西独法廷の命令により調べられた。

This was the second suit against Roemer, a long-time critic of the book, by Frank.In the first case, the court decided in Frank's favor when the testimony of historians and graphologists sufficed to authenticate the diary.

これはフランクの、長年の批評家であるロエマーに対する第2の訴訟であった。最初の訴訟では、裁判所はフランクを支持し、歴史家と筆跡学者の証言が日記を認証するのに十分であると判断した。

In April, however, only a short time before Frank's death on August 19, the manuscript was turned over to techicians of the BKA [ Bundeskriminalamt, Germany's "FBI" ] for examination.

しかし、フランクが死去する8月19日の少し前の4月、原稿(日記)は、BKA(ドイツの "FBI")の技術者に調査のため引き継がれた。

The manuscript, in the form of three hardbound notebooks and 324 loose pages bound in a fourth notebook, was examined with special equipment.

イメージ 4

原稿(日記)は、ハードカバーの3冊のノートの形で、4冊目のノートブックは綴じていない324ページを装丁したもので、特別な装置で検査された。

The results of tests performed at the BKA laboratories show that portions of the work, specially of the fourth volume, were written with a ballpoint pen.Since ballpoint pens were not available before 1951, the BKA concluded, those sections must have been added subsequently.

BKAの実験室で実施されたテストの結果では、日記の一部、特に四冊目の一部はボールペンで書かれていることを示している。

ボールペンは1951年以前には入手できなかったので、BKAは、四冊目はその後に追加したものに違いないと断定した。(注)つまり、二度目の裁判でこのロエマーの申出は正当と認められた。

* Anne Frank fell ill with typhus at the Bergen-Belsen camp and died in March 1945.

*アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン収容所で発疹チフスで病気になり、1945年3月に死亡したとしている。

※ 然し、1950年にビックがボールペン「クリスタル」を発売し普及したが、アンネが日記を書いた隠れ家で潜行生活中(1942年~1944年)にはボールペンは普及していなく、アンネはボールペンで四冊目を書ける訳がない。当時、筆記具の主流は万年筆であった。

The examination of the manuscript did not, however, unearth any conslusive evidence to lay to rest the speculations about the authenticity of the first three notebooks.

しかし、原稿(日記)の調査では、最初の3つのノートの真偽についての推測を解決する決定的な証拠を発見しなかった。

この最後の部分が偽書であるのなら、アンネの日記全体の真贋が問題となる。なぜならば、この四冊目の筆跡が、三冊目までと同じだったから。


アウシュヴィッツなどの強制収容所ユダヤ人は将来のユダヤの国の国民として大切に扱われていた。ホロコースト(大虐殺)は嘘の歴史。

ナチスアウシュヴィッツ等の収容所建設目的は「ユダヤ人絶滅」ではなく ユダヤ人の国・イスラエルを建国するための国民要員。アウシュビッツでのユダヤ人たちは優遇され、ころころ太っていた。

ロスチャイルドを中心とするシオニスト達が1897年にスイアウのバーゼルで開いた第1回世界ユダヤ人会議での決議事項として「50年後には、民族の悲願だったユダヤ人国家を誕生させる」との誓いが為された。
 
そして「イスラエル建国の為の国家の誕生には必須の国家の3要素(領土・国民・政府)の内の最も困難な「国民」を創出させる為には、ヨーロッパ全土から無理やりユダヤ人(いわば「羊」)をかき集める必要があった。
 
「ドイツ民族を牧羊犬シェパード」に仕立て上げて、パレスチナの国土と狙いをつけた土地に「羊」を追い立て誘導する「牧羊犬」に育て上げる「調教師ヒトラーとその親衛隊ナチス」を作った。

『簡単に洗脳される日本の若者』 2016/7/29(金) 
アンネ・フランクは生きていた』 2015/1/20(火) 
『捏造された歴史を叫び続ける醜態』 2012/1/18(水) 
世界ユダヤ人人口統計の推移から。第2次世界大戦前と対戦後の世界のユダヤ人の人口に大した変化は無い。こういう統計の下で、600万人のユダヤ人が殺されたなどということがあり得る筈がない。ナチスソ連軍により殺されたのは、非ユダヤポーランド人の民間人で、その数は300万人。

ヒトラーの任務と国際金融資本』 2016/8/1(月)
ナチスは、ワンワールド(世界統一政府)へのプロセス・共産主義の目的でもある人間の従順な家畜(ゴイム)化への実験をもおこなっていた。(ナチスの医師が発見したフッ化ナトリウムの効用)
ヒトラーナチスを支えたドイツ企業のオーナー達はユダヤ人であった。

山本五十六ヒトラーも、シオニストユダヤ人の手先として戦争を勃発させ、任務を終えたら死んだことにされた。そして五十六はニューヨークで、ヒトラーは南米で余生を送った。