社長の嫉妬


私の履歴書40代本社編

1994年頃の或る日のことです。吉田専務に呼び止められました。
「川口社長がどうしても君を欲しいと言って太秦社長に懇願していましたよ」

びっくりしましたね。
川口社長というと、私の担当する子会社2社の中の1社のNK社(仮称)。私はNK社の月例役員会議に出席していましたし、NK社の支店ごとに行われる社員旅行には都合がつけば参加していました。

例えば、仙台支店は岩手の猊鼻渓(げいびけい)舟下り一泊旅行に。名古屋支店は京都府亀岡市湯の花温泉で一泊。東京支店の場合は、福島県いわき市スパリゾートハワイアンズへの一泊でした。

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これはまずい。
NK社の川口社長は、もうひとつの私の担当する子会社AB社が、超赤字会社から一転して超優良会社に変身した理由を知ったことになる。その理由とは私の考案した特許製品の販売利益によるもの。

だが、あの特許は太秦社長がメディアや社内に対して太秦社長自らが考案したもの、との公言を繰り返している。これは、何かが起きるな。

そう思っていた矢先、やはり新たな事態となりました。
私と、当該子会社NK社の町田専務が吉田専務室に呼ばれました。
それは、太秦社長の指令で、『水無瀬部長(私)の従来の営業部を東日本と西日本に二分割する。東日本をNK社の町田専務が本社の部長として兼務で担当する。西日本を水無瀬部長が担当する』というものでした。

私はやはり起きたか!と思いました。
太秦社長の嫉妬心からとでも言いましょうか。
社内外で信頼される者を忌み嫌っていました。

太秦社長は二代目社長(長男)であったものの、会社が二つに割れるかという噂話が囁かれるほど、社内の一部の部署が熱き信頼を寄せる実弟・佐山専務の下克上の動きがある故、自分の確たる社長の座を築くためにも、いかに実弟・佐山専務を会社から去らせようかと苦慮した経験に基づくものでした。(註!)

それにしても、東西二分割としても、配下の三人の課長とその部下たちは組織的にはどうなるのかを吉田専務に問うも回答がありません。と言うことは、その東西分割シフトとは、単に私とNK社の町田専務を競わせるものだったのです。ひとことで言えば、私を欲しがるNK社の川口社長への太秦社長による一種のあてこすりでした。

本来、この部署の目的は、従来の小売店対象販売以外に、新たに企業や病院などの組織を顧客として事業拡大を図るというもの。

その場合は、商店対象以外に知識や営業未経験の支所の営業員を使い他業界を顧客化するためには、他業界向けの新商品が必要であり、然も、それは特許製品で且つ黙っていても売れる程のレベルのものであることが必要条件です。

その製品が無い現状ですから、第一には新商品開発に重点を置くべきなのです。換言すれば、二分割方針とは、新商品開発を放棄せよと言うに等しいのです。

呆れました。
と言っても㈱ウズマサは太秦社長のワンマン経営ですから、異論を挟むことは至難の業。私が西日本担当とすると、霞ヶ関と永田町を町田部長に引き継ぐことになります。然し、人脈の引継ぎは永田町はさておき、霞ヶ関との歴史が浅い故に、おいそれとはいきません。

そこで町田部長と私は相談し、それまでの私の担当部署を社長の指示とは異なる二分割案を練り、私が霞ヶ関の三つの省庁と難関の医療業界担当とし、町田部長は産業機器担当とし、奏上しました。

不思議なことに、これに関しての可否の回答は無いので、私たちは私たちが決めた分割案で走りました。

他方、とんでもない社長指示が吉田専務経由できました。
それは『太秦社長が京都商工会議所会頭に立候補するから、▲▲社の○○社長を訪問し、太秦社長に投票するように依頼すること』というものでした。

呆れました。
京都商工会議所というと、オムロン(立石)、ワコール、村田製作所島津製作所堀場製作所、京セラなどのそうそうたる面々ですから、会頭立候補などは天につばを吐くようなもの。

私は「分かりました」と生返事で応答しましたが、全く動きませんでした。
無論、私は▲▲社の○○社長と何度か会うもその依頼はしませんでした。

吉田専務からは「どうだった?」との問いかけが二度ほどありましたが、「ウゥー」とうなる返事をするだけ。半年後には無音となりました。さてさて、次はどんな事態になるのか私は不安でもあり、心待ちでもありました。


(註1)『社内権力闘争の具にされて』 2009/1/30(金) 


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