古事記編纂200年弱前の星空


ビートたけしの日本陵辱プロパガンダ放映の記事を書いて、さて、たけしたちの言う日本文化劣等論への反証を書こうと色々検索したら、わが町島本町生駒山の間にある大阪府交野市の『交野が原に描かれた「星空」、つまり交野天神社、機物神社天野川の位置関係は西暦535年の星空であった』という記事にたどり着きました。

(参考)古事記こじき、ふることふみ)、残存する日本最古の歴史書和銅5年(712年)太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された。

地理的にも内容も結構興味をそそる記事なので、その一部を紹介します。

然し、星空というと、もう4分の3世紀近く生きてきて、思い出せる夜空って僅か4回に過ぎません。今の夜空ってどんどん星が見えなくなっていますからね。

(思い出せる夜空)
その1)私の履歴書④赤いオーロラを観る 〈滝時代〉
その2)私の履歴書・27 英子さんとはこうした別れでした 〈下川大内村時代〉
その3)私の履歴書・320 北海道はやはり道東ですね
その4)私の履歴書・339 道北での満天の星屑

(たけしのプロパガンダ放送)
日本語の歴史:たけしもプロパガンダ
2017/5/19(金)


~冬の星座土居裕子 ユーチューブ

さて、本題

彗星捜索家「木内 鶴彦」氏が推理する「交野が原」の壮大な歴史ミステリー

不思議に満ちた交野が原の原風景


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交野(かたの)、枚方を流れる天野川あたりには古くから『天の川伝説』が語り継がれています。(中略)
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JR学研都市線『津田駅』近くには天棚機比大神(あまのたなばたひめおおかみ)をご祭神とする機物(はたもの)神社もあり、交野から枚方に広がる「交野が原」が日本における七夕伝説の発祥の地であるとも言われて来ました。

交野市にはなぜか「星田」「南星台(なんせいだい)」「天田(あまた)の宮」など夜空にちなんだ地名が多いんですが、星田には星が落ちたという伝説も残っています。また、交野という地域は、金属が取れる鉱脈もないのに昔から鍛冶屋がたくさんあって不思議に思われていたそうです。

天の川伝説で有名な交野市倉治(くらじ)の機物神社は、『交野市史』の記述によれば、そもそものご祭神は、はじめてこの地に機織りの技術を伝えたという漢人庄員。

ところが、平安時代になって京都朝廷の人々が遊猟のため「交野が原」を頻繁に訪れるようになり、当時彼等の間で盛んであった天体崇拝思想や文学的趣味から、そのご祭神は転じて織女星すなわち天棚機比大神となったとされています。(中略)

つまり、機物神社冬至の日の出を拝む所なんです。機物神社は昔から天文測量の重要なポイントだったんですね。

天野川は、実は今から1300~1400年前に人工的に作られた川であるとも言われています。私は天野川機物神社の関係から推理して、他に必ず中心点があるという仮説を立てました。

それを実証するために、過去を計算するという作業をここから始めました。そうするうちに、樟葉の交野天神社が重大な意味を持つのではないかということがだんだんと分かってきました。

交野天神社を北極点にして 壮大な円形星図が交野が原に描かれた

交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)は、社伝によれば延暦6年(787)11月5日、桓武天皇が先帝光仁(こうにん)天皇を天神(あまつかみ)として交野が原で祀ったことに由来すると言われています。そんな謂(いわれ)の他に、宮司さんに伺うと、1500年位前にここは“すべてが交わる場所”とされ、星にまつわる話が残っているということでした。

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私は天野川機物神社の位置関係から逆算して、交野天神社が円形星図の中心点(北極点)であると推測しました。遠い昔、交野天神社の位置を中心点に定め、そこから織り姫星(こと座のベガ)の位置を正確に測った誰かがいたのです。そこに機物神社が建てられたんです。

交野天神社の位置がどうして中心に選ばれたのか?はっきりとした理由は分かりませんが、しかし基準点はどこかに設けなければならなかったわけです。その基準点から一つの文明が作られようとしたのです。

そこには現在の私たちの知っているよりもはるかに優れた高等数学を平気で使い、しかも星の運行の計算が出来るような人々が深く関わっていたと考えられます。その人々が最初に、交野天神社の位置をすべてが交わるところ、つまり北極点と定めたのです。

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交野天神社の裏に和気(わけ)神社(貴船社)がありますが、和気神社は昔は交野天神社と一体で小高い丘の上にありました。そしてそこには櫓(やぐら)が建てられていたということです。天神社の南には鏡伝池(きょうでんいけ)があります。現在は間に樟葉中学校の校舎が建っていますが、和気神社、交野天神社、鏡伝池は南北に一直線に並んでいました。遠い昔、和気神社の小高い丘に立てば、目の前には鏡伝池、そして広大な「交野が原」が一望に見渡せました。

日が落ちると静寂が訪れ、降るような星々が全天に広がり、天の川もはっきりと眺めることができたことでしょう。交野が原は、神秘に満ち溢れていたのです。

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池には「鏡で伝える」という象徴的な名前が付けられていますが、この地を“すべてが交わるところ”と決めた人達は、和気神社の小高い丘の櫓の上に立って、池に反射する星の角度を測っていきましたこれは航海士が大海原で現在位置を求めるときに使う六分儀の原理と同じです。櫓は当時の天文台だったと考えられます。測った星の位置は、今度は昼間に太陽の光を同じ角度で鏡に反射させて地上にポイントを落とし込んでいきました。当時の人々にとって、鏡は天文測量になくてはならない道具として大切な意味を持っていたはずです。

 私は交野が原に描かれた「星空」、つまり交野天神社、機物神社天野川の位置関係を計算しましたが、そこに描かれていたのは西暦535年の星空であったことも知りました。

『天の川伝説』に導かれるように、交野天神社、機物神社天野川の位置関係を計算して驚いたことは、現在の数学や天文学の最先端の知識を使わなければならないことを簡単にやってのける、そんな凄い文化を持った知的な人々が、かつて交野が原に住んでいたということです。私は一つの仮説に基づき、交野・枚方の地に関心を寄せるようになりましたが、今後さらに調べていくと、もっと凄いことが見えてくるような気がします。

星田妙見宮のあたりに 遠い昔、真夏の夜空から流星が降り落ちた

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交野ではその昔、八丁三所(はっちょうみところ)に星が降ったという伝説が語り継がれて来ました。嵯峨天皇弘仁年間810~824)の頃、弘法大師空海)がこの地方に来られた時に、獅子窟吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、高岡山の東にある「星の森」と、光林寺の境内、そして星田妙見宮の三カ所に落ちたという言い伝えです。

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星田妙見宮の参道である石段下の右手を少し入ると『登龍の瀧』がありますが、大昔(おそらく西暦900年から1000年の間ではなかったと思うのですが)ここに隕石が落ちたことは間違いない事実だと私は考えています。

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滝壺となっているのがクレーターでしょう。 私は、伝説というのは全くのフィクションというより、何かの象徴的な出来事が起こった時の記録であると考える方が自然なような気がしています。伝説とは、事実としての出来事が、長い年月の間に様々な人物のいろんな思惑により大きくカタチを変えながら語り継がれた物語ではないのでしょうか。そう考えて、事実関係だけをシンプルに整理し、調べていくと、意外と真実が見えてきて、その出来事に遭遇した時の古代人の驚きぶりまでが想像できるような気がします。

星田妙見宮のあたりに 遠い昔、
真夏の夜空から流星が降り落ちた

交野ではその昔、八丁三所(はっちょうみところ)に星が降ったという伝説が語り継がれて来ました嵯峨天皇弘仁年間810~824)の頃、弘法大師空海)がこの地方に来られた時に、獅子窟吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、高岡山の東にある「星の森」と、光林寺の境内、そして星田妙見宮の三カ所に落ちたという言い伝えです。

星田妙見宮の参道である石段下の右手を少し入ると『登龍の瀧』がありますが、大昔(おそらく西暦900年から1000年の間ではなかったと思うのですが)ここに隕石が落ちたことは間違いない事実だと私は考えています。

滝壺となっているのがクレーターでしょう。 私は、伝説というのは全くのフィクションというより、何かの象徴的な出来事が起こった時の記録であると考える方が自然なような気がしています。伝説とは、事実としての出来事が、長い年月の間に様々な人物のいろんな思惑により大きくカタチを変えながら語り継がれた物語ではないのでしょうか。そう考えて、事実関係だけをシンプルに整理し、調べていくと、意外と真実が見えてきて、その出来事に遭遇した時の古代人の驚きぶりまでが想像できるような気がします。

妙見菩薩は一般的には北極星を神格化したものとされ、シンボルに北斗七星が描かれているんですが、その形は現在の私たちが見ている柄杓(ひしゃく)の形とは少し異なっています。星は固有運動をしていますから、長い年月をかける間に星座としての形は少しづつ変化するんです。つまり大昔の人々が見ていた北斗七星は、妙見さんのシンボルとして描かれているのと同じ並びをしていたということです。それが何年頃であったのか?それは天文学的に計算をすれば推測することは可能です。

おそらく、隕石は真夏の夜空に、まるで七曜の星(北斗七星)が降ってきたかと思われる角度から、物凄い勢いでここに落ちてきたのではないでしょうか。

クレーターの大きさから推測すると、落下した隕鉄は3メートルくらいの塊であったと思います。隕石としてはそんなに大きくはないんですが、落下してくる速度というのはだいたい時速10万キロくらいです。地球は時速1500キロで自転しながら、太陽の回りを時速10万8千キロくらいで回っていますから、そこに時速10万キロで隕鉄が落下して来た時の衝撃というのは、たった3メートルくらいのものでも、とてつもないものであったことが想像できます。

それでは一体、ここに落ちてきた隕石というのはどの星のかけらであったのか? ということですが、夏の夜空で、北斗七星と同じ方向からやって来て、地球に落下する可能性のある流星はといえば、毎年8月12日をピークに、7月23日から8月20日にかけて出現するペルセウス座流星群しか考えられないんですね。

この大流星群の母彗星は135年の周期で太陽の回りを回るスイフト・タットル彗星です。スイフト・タットルがこの前太陽に最も接近したのは1992年でしたが、その時その彗星を再発見したのは、実は私でした。

 因縁めいていますが、私の再発見したスイフト・タットル彗星のかけらの鉄の部分が星田妙見宮に落ちた可能性が非常に高いんですねえ。

私市(きさいち)の磐船神社には「磐船伝説」というのが伝えられています。大昔、饒速日命(にぎはやひのみこと)が磐船に乗って哮ケ峰(たけるがみね)に天降ったという言い伝えですが、そんな伝説もひょっとしたら隕石の落下に関係しているのかも知れません。

また、交野には金属が取れる鉱脈もないのに昔から鍛冶屋がたくさんあったという話も、ここに隕鉄が落ちたということであれば説明がつきます隕鉄を使えば、刀をも切ってしまうような、丈夫で鋭い刀を作ることが可能です。だから、隕鉄が落ちた後、しばらく後に急遽、刀鍛冶が集められ、ここで“秘密の武器”が作られていた可能性が高い。

文献によれば、その頃この地に疫病が流行ったという記録もありますから、その時の権力者が人を寄せ付けないようにして、こっそりと作らせていたとも考えられます。この隕鉄で作られた刀が例えば、後世に名を残すような“伝説の剣”と呼ばれるものであったとしたら歴史も非常に面白いですね。(中略)

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星田妙見宮のご神体は、祠の奥に見える二個の霊岩ですが、春分の日秋分の日の太陽は二個の霊岩の間から昇ります機物神社冬至の日の出を拝む位置であったということも考え併せて、古代に暮らす人々にとっては、田を耕し、種を蒔き、米を収穫するためには、季節の変化を知る上で、日月星辰の運行はとても重要な意味を持っていたのです。

現代の私たちは確かに便利さは手に入れました。しかし、自然と共に生きていた我々の祖先が「交野が原」で眺めていたような降るような星空は失ってしまいました。
(中略)

機物神社の中邑宮司が興味深い話を聞かせて下さいました。
中邑  以前、枚方のある病院長が中国の西安を訪れ、要人と名刺交換をした際、枚方と書かれていたのを見て『枚方とは交野が原のことか?』と問いかけられたそうです。『交野が原なら機物神社というのがあるはずだ』とも言われたとか

大昔に自分たちの祖先が、農耕文化と織物の技術を交野が原に伝えたと言う伝説は中国でも語り継がれていたんですねえ。驚きました。まさにシルクロードですねえ。 

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機物神社では古式ゆかしい七夕祭のほかに、冬至の太陽をお祀りするため、毎年大晦日に大火焚きの神事を行ないます。 交野が原は星がきれいなところでしたから、天上を地上に映したのが機物神社でした。紀元前3世紀の頃、中国で発生した陰陽道(おんみょうどう)が仏教伝来と前後して日本にも伝えられましたが、星を神とし、天文を観測して万物を占う陰陽道では、都の南というのは要点とされ、交野が原は長岡京の南に当たることから大事にされたんです。

山岳宗教が盛んになる前、交野が原は陰陽師の修行場であったとも言われています……。

桓武天皇が交野が原で北極星を祀る
桓武天皇平城京から長岡京に遷都した翌年の延暦4年11月、都の南効にあたる交野郡柏原(枚方市片鉾の西南)に郊祀壇(こうしだん※都の郊外で行う祭天のための土壇)を築いて北極星を祀り、長岡京遷都の大事業をなしえた神恩を謝して祈られた。これは、中国の皇帝が毎年冬至に天壇を設けて北天を祀る例にならったもので、日本ではこれが最初のことであった。

中国では古くから北極星の存在を知り、日月星辰の運行を測って暦が作られていたから、皇帝は毎年これによって季節を知り、農民を導いた。なるたけ多くの年貢米を取り立てるためにも、天体の測定は国の元首の重い任務であるとされた。そのため宮廷の近くに大規模な天壇を造って、皇帝自ら北辰を礼拝し、司天台(天文台)の役人は天体観測と翌年の暦を立てた。

わが国でも奈良時代に、大宝令で陰陽寮(おんようりょう)という役所を朝廷内に設けてそれと同じ仕事をしたが、日本の天皇で星を祀られたのは桓武天皇が最初であった。(「交野市史」「枚方市史」「郷土枚方の歴史」参照)

◎北斗七星と織女星 中国古代の皇帝の袞衣(こんい※竜の模様の縫い取りをした天子の礼服)には、左袖に北斗七星、右袖に織女星が置かれている。……(中略)

……織女は天帝の娘といわれ、その身分はこの上なく高い。その主掌するところは瓜果、糸綿、および婦人の手技としての機織である。それに対する北斗も天上の回転する (たま)であり、天の中央に在って四郷を治め、諸事万般はもちろん、とりわけ、農耕の規準となる尊い星である。両者ともに身分は非常に高く、身分の高さは古代にあっては最高の司祭者を意味する。この二星が主管する「耕」と「織」も、二つながら古代中国においては皇帝と皇后による祖廟祭祀の中心をなしている。

以上の理由から袞衣の両袖上の北斗と織女星はワンセットと見なされ、この組み合わせはとりもなおさず古代中国宗廟祭祀の表出として受け止められている。(吉野裕子著「陰陽五行と日本の天皇人文書院より引用)


(参照記事)


広報 かたの 特集シリーズ
交野市の約半分を占める山地は東部から南部に屏風のように広がり、緑豊かで市民の安らぎとなっています。この山地は奇岩巨岩が多く、それらを題材にした数々の神話や伝説が生まれ、また修験道の行場として利用されてきました。
星田地区
星田の小松神社に江戸時代に作成された「妙見山影向石略縁起」の版木が残されています。(中略)
大師はその仏が獅子窟寺の仏眼尊だと思い、獅子窟寺の岩窟に入り、仏眼尊の秘法を唱えました。すると、北斗七星が空から降ってきて、三つに分かれて星田村に落ちてきました。そのため、三宅庄星田村といいます」と記されています。
星が降ってきた3か所とは、高岡山の東にある星の森、光林寺妙見山の頂上で、この3か所を結ぶと一辺が八丁(約870メートル)の三角形となることから八丁三所といわれています。

 しかし「妙見山影向石略縁起」の版木は、江戸時代の後期にできたものなので、千年前の昔話を正確に伝えている可能性は低いと言わざるをえません。
 ただ、光林寺山号は降星山といったり、星田という地名の由来を降星伝説に求めるなど、ロマンチックな星の物語のもととなったものです。

交野の聖地パワースポット星田妙見宮(小松神社)【後編】
星田妙見宮は拝殿はあるものの本殿がなく、大変珍しいパターンです。
で、この巨石が御神体である妙見石(織女石)です。
本来、御神体には本殿をこしらえるのですが、一説によると遠い昔、何度か本殿を作ったにも関わらず、すぐに燃えてなくなってしまうという
眉唾な伝説のある石です。


(画像)
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