日本とドイツは何故に贖罪と汚名を着せられるのか


先日の私の記事『外交官・杉原千畝氏が救ったユダヤ人とは』(2017/2/28(火) )で、下記質問がありました。成る程と思えるものなのでいたく感銘致しました。


(質問)
シナリオに基づく歴史であったとしたら、現在続いているドイツ国と日本国の汚名と贖罪(しょくざい)はなんのためでしょう??

【贖罪】とは、
犠牲や代償を捧げて罪をあがなうこと。特にキリスト教で、キリストが十字架上の死によって、全人類を神に対する罪の状態からあがなった行為。

この質問への回答は難しいですね。日本だけでしたら黄色人種への人種差別で片付けられますが、ドイツもそうですからね。但し、私なりの回答を持っているのですが、直ぐにご理解を賜るには難しいので順を追って何回かの記事に分けて結論まで書いていこうと思います。

実は、この質問の中での日本国に対しては、6~7年前、調べたことがあります。その時に集めた資料や画像をCDの中の一部に保存しましたが、その資料と画像を発見することは困難なので、記憶に基づいて記事を書いていきます。そこには日本人とドイツ人に汚名を着せるべく共通したものがあります。

■先ずは問題提起から、

何故に超歌唱力のボーカル鈴華ゆう子の和風バンド『華風月(はなふうげつ)』は、マスコミにあまり取り上げられないのか。紅白にも選ばれないのか。

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2012年2月、詩吟&歌&ピアノ・鈴華ゆう子、尺八・神永大輔(リーダー)、箏・いぶくろ聖志の3人で結成された和風ユニット.。華風月メンバー3人とも、重複して和楽器バンドのメンバーでもある。2012年10月、3人に津軽三味線、和太鼓、ギター、ベース、ドラムを加えた編成によるボカロ曲「月・影・舞・華」の演奏を動画サイトに投稿し、これが後の和楽器バンドに発展するきっかけとなった。

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(歌)和楽器バンド / 千本桜 (ユーチューブ)
視聴回数 56,798,453 回 (↓クリック)

(歌)和楽器バンド/天樂 Tengaku (ユーチューブ)
視聴回数 14,170,922 回 (↓クリック)

華風月ホームページ

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さて本題
■米国には戦争計画オレンジ(日本占領計画)というものがありました。米国は日本を潜在的敵国と名づけ、以後、日本帝国海軍壊滅を謀っていきます。

ここからスタートします。

※ 記事中、(註)の青文字は私が加筆した箇所です。

War Plan Orange

War Plan Orange (commonly known as Plan Orange or just Orange ) refers to a series of United States Joint Army and Navy Board war plans(註1) for dealing with a possible war with Japan during the years between the First and Second World Wars .
オレンジ計画
通説では、米国の戦争計画オレンジは、第一次世界大戦第二次世界大戦争の間の日本との戦争の可能性に対処する一連の米国合同陸海軍戦争支援委員会の計画(註1)(註2)を指します。

(註1)
Board of War(戦争支援委員会)
 1776年1月24日、議会議員のエドワード・ルトレッジ(Edward Rutledge)は、 ジョージ・ワシントン大統領自身の懸念を喚起し、英国に似た戦争事務所が設立されることを提案した。第二次大陸会議では、 戦争兵器庁(Board of War and Ordnance)としても知られる『Board of War』が 、米大陸陸軍の行政を監督し、 議会への軍隊の勧告を行う特別常任委員会として創設されました。

(註2)
最初のオレンジ計画は1897年(1898年米国はハワイを併合)セオドア・ルーズベルト日露戦争(1904年)の7年前につくったとの説もある。

1893年2月23日、米国のハワイ併合意図に不快感を抱くアジアの小国日本が軍艦をハワイ・ホノルル港に差し向けた。

巡洋艦「浪速」、さらに5日遅れて「金剛」が相継いでホノルル港に入り、米軍艦「ボストン」の隣に投錨した。「浪速」の艦長は東郷平八郎、後に日本海海戦を指揮して世界に勇名を馳せた名提督の若き日の姿である。米国のハワイ併合までの日本とのゴタゴタと、米国は太平洋を制覇する意向もあり、日本を敵視する政策に転換した。以上のことから、最初のオレンジ計画は、1897年という説の方が有力と思える。 (注)この件は後日別途記事にします。

Informal studies as early as 1906 covered a number of possibilities, from basing at Gibraltar or Singapore  (an idea revived by the British before World War II)  to "a quick trans-Atlantic dash" to the Pacific.

早くも1906年の非公式調査では、ジブラルタルシンガポールをベースにして、太平洋への「大西洋高速疾走」第二次世界大戦の前にイギリス人によって復活したアイデア)に至るまで、さまざまな可能性をカバーしていました。

The plan eventually adopted was conceived by Rear Admiral Raymond P. Rodgers in 1911. The plan was formally adopted by the Joint Army and Navy Board beginning in 1924.  Predating the Rainbow plans(註2) , which presumed the assistance of allies , Orange was predicated on the United States fighting Japan alone.

最終的に採択された計画は、1911年にレイモンド・プロデューサー・ロジャース司令官によって考案されました。この計画は、1924年に始まった合同軍と海軍理事会によって正式に採択されました(註3)。同盟国の支援を前提とした、虹の計画(註4)を前提としたオレンジは、米国だけで日本と戦うことを前提としていました。

(註3)
最初のオレンジ計画1924年説は、米国のハワイ併合(1898年)での米国の不当な占領を表面化させたくないためのものと思われる。

(註4)
Rainbow plans(レンボープラン)
United States color-coded war plans

米国の色分けされた戦争計画
1920年代と1930年代にかけて、米国軍合同軍隊と海軍理事会は、様々な仮説的な戦争シナリオの潜在的な米国戦略を概説するために、色分けされた多数の戦争計画を作成した。5つのレンボー作戦については別途この稿の下段に(註5)として記述しています。

As originally conceived, it anticipated a blockade of the Philippines and other US outposts in the Western Pacific.
They were expected to hold out on their own while the Pacific Fleet marshaled its strength at bases in California , and guarded against attacks on the Panama Canal .

もともと想像されていたように、西太平洋のフィリピンと他の米国の前哨基地の封鎖を予期していました。太平洋艦隊は、カリフォルニアの拠点で力を発揮し、パナマ運河への攻撃を防いでいました。

After mobilization (the ships maintained only half of their crews in peacetime), the Fleet would sail to the Western Pacific to relieve American forces in Guam and the Philippines.
Afterwards, the fleet would sail North for a decisive battle against the Imperial Japanese Navy 's Combined Fleet , and then blockade the Japanese home islands .

動員後(船は平時に乗組員の半分しか維持していませんでした)、艦隊はグアムとフィリピンで米軍を救援するために西太平洋に航行するでしょう。
その後、艦隊は北朝鮮を帝国日本海軍(Combined Fleet)との決定的な戦いのために航行させ(註6)、その後日本の本島を封鎖する。

This was in keeping with the theory of Alfred Thayer Mahan , a doctrine to which every major navy subscribed before World War II , in which wars would be decided by engagements between opposing surface fleets (as they had been for over 300 years).

これはアルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred Thayer Mahan 1840-1914)の理論に沿ったものであり、その理論とは、 戦争の勝敗は(300年以上もの間)対峙する艦隊間の交戦によって決定されるというものです(註6)(註7)。これは全ての主要海軍が第二次世界大戦の前に購読した教義でした。




(註5)
複数の敵に対する大西洋と太平洋の2つの大洋戦争の脅威に対応するために開発された5つのレインボー計画。米国の戦争計画のための色彩の使用は、陸軍と海軍が計画に同じシンボルを使用したいという願望から生まれた。

最も重視された計画は、戦争計画オレンジで、日本との戦争のための一連の緊急時計画。1919年に正式に採用され、そして1924年に正式に概説された。オレンジは実際のキャンペーン第二次世界大戦では日本に対抗し、中国本土からの巨大な経済封鎖と在米日本人とその財産の拘束計画をも含む。

〇戦争計画黒は、ドイツとの戦争の計画。
第一次世界大戦( World War I)1914年(大正3年)~1918年(大正7年)が終わって間もなくの1919年、米国は既に20年後のドイツと再び戦争をすることを計画していた。

〇戦争計画レッドは、英国とカナダに対する戦争の計画。
〇戦争計画グリーンは、1912年、ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft)大統領が、メキシコ革命時に外国所有財産を保護するための遠征軍派遣の検討。
〇戦争計画レッドオレンジは、日本(オレンジ色)と大英帝国(赤色)に同時に対抗するアメリカ(ブルー)との2戦戦争
〇戦争計画黄色、ボクサー蜂起 (1899-1901)の反復を予期して、具体的には中国の戦争に対処する。(注)他の色の戦争計画は省略

これらの戦争計画に基づき、米軍少年将校は計画の変更・改訂の都度よく訓練され、各自任務を与えられていた。

《対日戦争計画(オレンジ計画)の進化》 
1919年12月19日 - 太平洋の戦略(JB 325、シリアル28)
1923年7月7日 - 状況の推定、オレンジ(JB 325、シリアル207)
1924年8月15日 - ジョイント基本的な戦争計画 - オレンジ(JB 325、シリアル228)
1929年1月10日 - 連合軍と海軍基本戦争計画オレンジの改訂(JB 325、シリアル280)
1934年6月20日 - 現在の軍隊と海軍の不備 - オレンジ戦争の際に任命された任務を実行するためのフィリピン地域(JB 325、シリアル533)
1935年5月8日 - 連合軍と海軍の基本計画の修正 - オレンジ(JB 325、シリアル546)
1935年5月19日 - 連合軍と海軍の基本計画の修正 - オレンジ(JB 325、シリアル570)
1936年10月14日 - 状況の合同オレンジ推定値の修正(JB 325、シリアル589)
1936年12月9日 - ジョイント基本戦争計画オレンジの変化(JB 325、シリアル594)
1938年2月19日 - 共同軍と海軍基本戦争計画オレンジ(1938)(JB 325、シリアル617&618)

(註6)
戦争の勝敗は、艦隊間の交戦によって決まることから、陳腐化した初期の戦艦は廃棄の方向にあった。

Billy Mitchell – a passionate early advocate of air power – demonstrated the obsolescence of battleships in bombings against the captured World War I German battleship Ostfriesland and the US pre-dreadnought battleship Alabama .

情熱的な航空力の初期の提唱者ビリーミッチェル(アメリカ空軍の父)は、捕獲した第一次世界大戦でのドイツ戦艦オスフリースラントと比較し、米国の前弩級(ぜんどきゅう)戦艦アラバマは戦闘力の陳腐化にあることを実証した。

Rear Admiral Harry E. Yarnell demonstrated in 1932 the effectiveness of an attack on Pearl Harbor almost exactly showing how the tactics of the Japanese would destroy the fleet in harbor nine years later.

ハリー・ヤンネル司令官は、1932年に真珠湾に対する攻撃の有効性を実証し、9年後に日本人の戦術がどのように艦隊を破壊するかをほぼ正確に示した。

その実証とは、1932年2月7日、ハリー・ヤンネルの152機が9年後(1941年12月)の日本帝国海軍のように北東から真珠湾軍港を襲った。軍用飛行場は最初に任務から撤退し、その後戦艦が攻撃され被弾した。防衛航空機は飛び立つことが出来なかった。

 この海軍の戦争ゲームの審判員は戦闘機による攻撃を成功と判定し、ハリー・ヤンネルは日本の脅威を激しく警告するように促した。ニューヨークタイムズはこの演習を報じた。

(註7)ワシントン海軍軍縮会議(1921年11月12日~1922年2月6日)
会議の主な目的は、西太平洋の海域における日本の海軍の拡大、特に戦略的に価値のある島の要塞に関することを抑制することだった。尚、この会議の詳細は省略。

日英同盟 1902年~1923年
1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って1923年に失効した。

日露戦争 1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)
大日本帝国ロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。