歴史捏造の検証:リトアニア領事官杉原のユダヤ難民救助ビザ
道的として誹謗するテレビ番組や映画まで作られていますが、これは歴史の偽造であり、杉原は、日本政府(松岡外務大臣)の意向に沿ってビザを発行したことの検証と論証をしようと思います。
その根底は、米国や英国やオランダなどの国富の源泉である植民地に日本帝国陸軍は独立心を吹き込み、独立戦争の訓練をしたから、憎っくき輩で腹いせでもあり、米英に従わない国の指導者は絞首刑にするという暗示でもあります。
(註1)絞首刑7名の氏名等
今こそ改めて見直さなければならないこと 2011/12/23(金
(註2)メディアが伝えない大東亜戦争① 2015/8/4(火)
山本五十六記念館『赤い日本人形の秘密』 2016/9/13(火)
以下、本文。
先ずは、
第一次世界大戦後、
この事だけでも、日本の人種平等、ユダヤ人も平等という姿勢が理解できよう。
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1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会がヨゼフ・カスペ所有のモデルン・ホテルで開かれた。関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ専門家」の陸軍大佐安江仙弘をはじめ、当時ハルビン陸軍特務機関長を務めていた陸軍少将樋口季一郎らを派遣した。
(樋口季一郎の演説内容)
「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。
然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロムが行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。
ある一国(注:ドイツのこと)は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきである。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。」
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その前に、1930年代、日本で進められたユダヤ難民の移住計画である河豚計画(ふぐけいかく)がある。
1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。
「河豚計画」(ふぐけいかく)の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚(ふぐ)に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。
オトポール事件
1938年3月、事件は起きた。
3月と言えども、オトポールの夜間はマイナス30℃にもなる。
ソ連当局は、ユダヤ難民がハバロフスク近郊のビロビジャン自治区への定住することを許可しない。当然である。ソ連はナチスドイツと組んで、イスラエル建国の国民とすべく、ユダヤ人を欧州から追い出し、パレスチナに送り込もうとしていた。
1938年(昭和13年)3月8日以降、このソ連満州国境地域のユダヤ難民18名を皮切りにやってきたので、ハルビン特務機関長の樋口季一郎陸軍少将が独断で満州国と交渉し、ユダヤ難民に日本経由のビザを発行させ、ユダヤ難民を保護した。これが『オトポール事件』である。
このシベリア経由で満州国に入ったユダヤ難民保護数は『2万人』(樋口自身や相良の記述)説と、1939年(昭和14年)2月23日第74回帝国議会貴族院予算委員会で有田外相が述べた『100名弱(八十余名)』から、せいぜい『200人』との説と『数千人』説がある。
私見だが、1938年(昭和13年)3月8日からの11ヵ月間で有田外相の言う100名弱は少なすぎるとも思えるし、他方、日独伊三国防共協定を結んだ後のことであるから独の怒りを和らげるために有田外相は『100名足らず』と返答したものとも思われる。
やはり、「何千人かの避難民」(Tausenden von Flüchtlingen)説が有力で、恐らくこの根拠は、難民の列車を手配していた東亜旅行社(現在のJTB)によると当初オトポールに逃げてきた難民の数は200人程度で、その後は増え続け昭和14年に551名、昭和15年には3574名もの難民を救済したとのことによるものであろう。
この松岡洋祐とは、リトアニア領事館に杉原千畝が赴任した後の外務大臣である。これにより、リトアニアでの杉原のビザ発給は、松岡外務大臣、イコール、日本政府の意向に基づいたものであることをより理解できよう。
杉原千畝は晩年に書いた下記の手記で、杉原は満州国における日本の軍部主導による人種平等に基づくユダヤ難民救済を批判しており、東京裁判で日本軍部を擁護するはずはないと主張される方がいるが果たしてそうだろうか。
(渡辺勝正『決断・命のビザ』〔1996年、大正出版〕所収、291頁)。
この手記の意味することは、杉原は、満州国の日本軍部は気にくわないけど信頼したからこそ、リトアニア日本領事館に大挙して押し寄せたユダヤ難民に対し、ビザ発給条件に適合しなくても発給し、シベリア鉄道で満州国に送り込んだと言える。
尚、河豚計画を推進したのが、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重だが、両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)であった。
東条英機はドイツの抗議に対して「当然の人道上の配慮によって行なったものだ」と返答している。
日本政府が対ユダヤ政策に関する一応の指針を定めたのは、1938年12月に開催された最高意思決定機関である五相会議(首相近衛文麿、蔵相兼商工相池田成彬、外相有田八郎、陸相板垣征四郎、及び海相米内光政の5人)である。
日独防共協定がイタリアを入れた日独伊防共協定に拡大するなど、日独関係は年々緊密になっていたため、ユダヤ人を助けるために何でもするとなれば、関係を危うくするであろう。
あらたに日、満、支に渡来する猶太人に対しては一般に外国人入国取締規則の範囲内に於て公正に処置す
猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値のあるものはこの限りにあらず
翌1938年1月、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太ユダヤ民族施策要領」を策定し、世界各地のユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合する」という大目標を定めた。またハルビンでは、ユダヤ人自治区を建設する構想について議論するため、第2回、第3回極東ユダヤ人大会が開催された。
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「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」
(りくごうをかねてみやこをひらき、はっこうをおおいていえにせんこと、またよからずや)
(参考記事)
東条英機:宣誓供述書
「樋口季一郎とオトポール事件 -- 歴史はこうやって偽造される」
河豚計画(ウィキペディア)
「杉原千畝」で日本人はダマされるな!
戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎 ユーチューブ
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