歴史捏造の検証:リトアニア領事官杉原のユダヤ難民救助ビザ


『外交官・杉原千畝氏が救ったユダヤ人とは』 2017/2/28(火)  の続編です。

日本政府の意向に反しリトアニア領事官杉原千畝ユダヤ人に対しての日本通過ビザを発行したとして杉原を英雄視し、当時の日本政府(帝国陸軍)を非人
道的として誹謗するテレビ番組や映画まで作られていますが、これは歴史の偽造であり、杉原は、日本政府(松岡外務大臣)の意向に沿ってビザを発行したことの検証と論証をしようと思います。

その前に先ずは大東亜戦争(太平洋戦争)での敗戦日本国を裁くのに米国は東京裁判を開き、そして、次に述べる板垣征四郎陸軍大臣、東條英樹陸軍大将・総理大臣などの日本帝国陸軍の者6名が絞首刑にされています。

この東京裁判A級戦犯として絞首刑になった7名中(註1)、日本帝国陸軍が6名もいたのに、日本帝国海軍はゼロ。

これは何を意味するかというと、植民地独立・民族平等の大東亜共栄構想で動いた帝国陸軍を絞首刑にし、世界と日本国民に対して帝国陸軍は罪悪人であるとの印象を焼き付けるものです。

その根底は、米国や英国やオランダなどの国富の源泉である植民地に日本帝国陸軍は独立心を吹き込み、独立戦争の訓練をしたから、憎っくき輩で腹いせでもあり、米英に従わない国の指導者は絞首刑にするという暗示でもあります。

故に、日本帝国陸軍が主体的に動いた日本政府の民族平等・大東亜共栄構想に基づき、リトアニア杉原千畝領事館のビザ発給の行動も、『日本政府の指示に反して』と歴史は書き換えられたのです。

他方、山本五十六総督の指揮下で真珠湾攻撃をした帝国海軍は、共産主義ルーズベルト大統領の意向に沿って動いたもので(註2)、絞首刑免除となったのです。

(註1)絞首刑7名の氏名等
今こそ改めて見直さなければならないこと 2011/12/23(金
(註2)メディアが伝えない大東亜戦争① 2015/8/4(火) 
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山本五十六記念館『赤い日本人形の秘密』 2016/9/13(火) 

以下、本文。


先ずは、

国際連盟:設立年 1920年1月10日

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1919年4月、日本は国際連盟で『人種平等』を連盟の序文に謳(うた)うことを提唱し採択で11対5の賛成多数だったが、急遽、議長の米国ウイルソン大統領が全員一致でないとして否決した。

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この事だけでも、日本の人種平等、ユダヤ人も平等という姿勢が理解できよう。

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1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会がヨゼフ・カスペ所有のモデルン・ホテルで開かれた。関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ専門家」の陸軍大佐安江仙弘をはじめ、当時ハルビン陸軍特務機関長を務めていた陸軍少将樋口季一郎らを派遣した。

陸軍大佐安江仙弘は、かってソ連に留学し、その時、ユダヤ人との親交を重ね、ユダヤ通と言われていた。

この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。

樋口季一郎の演説内容)
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「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。

然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロムが行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国(注:ドイツのこと)は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきである。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。」

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これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。

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その前に、1930年代、日本で進められたユダヤ難民の移住計画である河豚計画(ふぐけいかく)がある。

1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。

実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ(移民人口1万8千人から60万人)、自治区を建設する計画であった。

「河豚計画」(ふぐけいかく)の名は、1938年7月に行われた犬塚の演説に由来する。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚(ふぐ)に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語った。


オトポール事件

1938年3月、事件は起きた。
場所は、満州国との国境にあるソ連領オトポール駅。
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3月と言えども、オトポールの夜間はマイナス30℃にもなる。

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1938年というと、リトアニア領事官の杉原千畝ユダヤ人に日本国経由のビザを発行する2年前のことである。

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ソ連当局は、ユダヤ難民がハバロフスク近郊のビロビジャン自治区への定住することを許可しない。当然である。ソ連ナチスドイツと組んで、イスラエル建国の国民とすべく、ユダヤ人を欧州から追い出し、パレスチナに送り込もうとしていた。

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そのため、ふくれあがったユダヤ難民(この数2万人との説がある)が、ソ連満州国境地域オトポール駅に押しやられた。

1938年(昭和13年)3月8日以降、このソ連満州国境地域のユダヤ難民18名を皮切りにやってきたので、ハルビン特務機関長の樋口季一郎陸軍少将が独断で満州国と交渉し、ユダヤ難民に日本経由のビザを発行させ、ユダヤ難民を保護した。これが『オトポール事件』である。

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このシベリア経由で満州国に入ったユダヤ難民保護数は『2万人』(樋口自身や相良の記述)説と、1939年(昭和14年)2月23日第74回帝国議会貴族院予算委員会で有田外相が述べた『100名弱(八十余名)』から、せいぜい『200人』との説と『数千人』説がある。

松岡満鉄総裁の秘書・庄島辰登による満鉄会の記録調査によればも最初の18名に続き、5人10人と相次いでユダヤ難民が到着し、三月から四月末までに総計約50人のユダヤ人を救援したとある。その後、第二陣、第三陣と難民が後続したが、この人数が不明で推測するしかない。

私見だが、1938年(昭和13年)3月8日からの11ヵ月間で有田外相の言う100名弱は少なすぎるとも思えるし、他方、日独伊三国防共協定を結んだ後のことであるから独の怒りを和らげるために有田外相は『100名足らず』と返答したものとも思われる。

やはり、「何千人かの避難民」(Tausenden von Flüchtlingen)説が有力で、恐らくこの根拠は、難民の列車を手配していた東亜旅行社(現在のJTB)によると当初オトポールに逃げてきた難民の数は200人程度で、その後は増え続け昭和14年に551名、昭和15年には3574名もの難民を救済したとのことによるものであろう。

いずれにしても、ユダヤ難民を僅か100名弱(八十余名)保護しただけで『オトポール事件』とは言わないのではないのか。それとユダヤ人ではなく単なる「何千人かの避難民」(Tausenden von Flüchtlingen)を保護しただけでも事件とは言わないのではないのか。やはり、オトポール事件と言うからには、半端ではない数、二万人とまでは言わないが、少なくとも5千人以上のユダヤ避難民を保護したものと思う。

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時の満州鉄道総裁松岡洋祐は、特別列車を仕立てて、現場では安江仙弘陸軍大佐と犬塚椎重海軍大佐が奔走し、ユダヤ難民をハルピンまで運んだ。

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※この件で安江仙弘陸軍大佐と樋口季一郎陸軍少将は、ユダヤ人で最も権威あるゴールデンブックに掲載された。

この松岡洋祐とは、リトアニア領事館に杉原千畝が赴任した後の外務大臣である。これにより、リトアニアでの杉原のビザ発給は、松岡外務大臣、イコール、日本政府の意向に基づいたものであることをより理解できよう。

杉原千畝は晩年に書いた下記の手記で、杉原は満州国における日本の軍部主導による人種平等に基づくユダヤ難民救済を批判しており、東京裁判で日本軍部を擁護するはずはないと主張される方がいるが果たしてそうだろうか。

(渡辺勝正『決断・命のビザ』〔1996年、大正出版〕所収、291頁)。
 「一九三六年(昭和一一)に満州国ができると、その外交部へ派遣され、満州国には三か年在籍しました〔……〕。そしてその間に私は、この国の内幕が分ってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に帰りました。」 

この手記の意味することは、杉原は、満州国の日本軍部は気にくわないけど信頼したからこそ、リトアニア日本領事館に大挙して押し寄せたユダヤ難民に対し、ビザ発給条件に適合しなくても発給し、シベリア鉄道満州国に送り込んだと言える。

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尚、河豚計画を推進したのが、「ユダヤ専門家」として知られる陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重だが、両名に加え、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、及び関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)であった。

東条英機はドイツの抗議に対して「当然の人道上の配慮によって行なったものだ」と返答している。

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日本政府が対ユダヤ政策に関する一応の指針を定めたのは、1938年12月に開催された最高意思決定機関である五相会議(首相近衛文麿、蔵相兼商工相池田成彬、外相有田八郎陸相板垣征四郎、及び海相米内光政の5人)である。

日独防共協定がイタリアを入れた日独伊防共協定に拡大するなど、日独関係は年々緊密になっていたため、ユダヤ人を助けるために何でもするとなれば、関係を危うくするであろう。

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そこで「猶太人(ユダヤ人)対策要綱」と題するこの合意文書は、ドイツやイタリアとの関係を尊重しつつも、ユダヤ人排斥は人種平等の精神に合致しないとして、以下の3点を方針として定めた。

現在日(日本)、満(満州)、支(中国)に居住する猶太人(ユダヤ人)に対しては他国人と同様公正に取扱い、之を特別に排斥するが如き処置に出ずることなし

あらたに日、満、支に渡来する猶太人に対しては一般に外国人入国取締規則の範囲内に於て公正に処置す

猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値のあるものはこの限りにあらず

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翌1938年1月、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太ユダヤ民族施策要領」を策定し、世界各地のユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合する」という大目標を定めた。またハルビンでは、ユダヤ自治区を建設する構想について議論するため、第2回、第3回極東ユダヤ人大会が開催された。

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日本書紀』における「八紘一宇」とは、

「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」
(りくごうをかねてみやこをひらき、はっこうをおおいていえにせんこと、またよからずや)
 
 現代語に翻訳すると(宇治谷孟訳『日本書紀(上)全現代語訳』1988年、講談社学術文庫、107-08頁)、「国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家にすることは、また良いことではないか。」 

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尚、東京裁判ではユダヤ人の奔走により、樋口季一郎は絞首刑を免れた。


(参考記事)
世界が語る大東亜戦争東京裁判
東条英機:宣誓供述書
樋口季一郎とオトポール事件 -- 歴史はこうやって偽造される」
河豚計画(ウィキペディア
杉原千畝」で日本人はダマされるな! 
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