未ださまよう駿河大納言忠長
もう10月になろうとしていますね。
今年も残るは3か月。
さて、この夏のこと
8月11日夕方、高崎駅着。
駅西側のホテルに一泊。
翌朝、ホテルから徒歩7分の大信寺の墓地・駿河大納言忠長の墓に参拝した。過去、会議や講習会で高崎支店出張の際、時間があれば参拝したから、少なくても3回は拝んでいたはず。と言っても今回は20年ぶりだが。
この寺を訪れるきっかけとなったのが、駅東側のホテル(註1)に宿泊した時に、忠長の切腹の場面が現れたからだ。(註2)
☆ ☆ ☆
(註2)
☆ ☆ ☆
忠長の五輪塔が見えた時、微かにだが普通ではない波長を感じたが、墓に近づくにつれて弱まる。
20年前の墓の周辺はごちゃごちゃしていて、いかにも放置のままの如し。
それがきれいになっていたのは北隣に永代供養墓を建てたからのようだ。。
以前は墓の玉垣(たまがき、石の柵)の入り口の石扉を開け、中に入ることが出来たけど、今は閉じられている。
線香を持ってこなかったので、線香のところにろうそくを立てた。
そして拝んだ。
長年のご無沙汰を詫び、そして私は私の出来る範囲であなたの怨恨を今の世に伝えて来たことを報告した。
微かに風があったので、ろうそくは何度も消えかかったが燃え続ける。
☆ ☆ ☆
報告の内容
2003年11月9日、ホームページに、1992年(H4)6月12日(金)高崎駅東口のホテルで見た切腹の場面のことを書く。と同時に、以降、何年がかりで忠長のことについて調べた結果、次のような結論に達した。
忠長は酒を飲み、二人の童女に酒と肴をとりに行かせ、その間に短刀で頸の半ばを刺し貫いて自害して果てたことになっているが、それは家光側が流したデマ。
高崎のホテルで1992年に私に見せた映像は、巻纓冠(けんえいかん)に白装束をした忠長が甲冑武者の介錯により首をはねられた内容から言うと自害ではない。
尚、忠長の切腹は、家光が老中の土井勘三郎利勝に指示し、利勝が高崎城主安藤重長に『忠長を善処せよ』と命令した。他方、家光は、家光の側用人安倍恵次を高崎城に派遣し、忠長の切腹に立ち合わせ、忠長の死を確認させた。私のベッドの横に立っていた甲冑武者は家光の側用人阿部重次である。
だが、数年前に藤枝市のホームページや観光案内から、毎年結構盛大に催されてきた『忠長の自刃場所としての供養祭』が消えていた(註3)。然も、あれほど賑わっている祭りの画像なども検索に一つも出てこない。
☆ ☆ ☆
私は五輪塔に手を合わせながら問うた。
「駿河大納言忠長さん、私にはこれしか出来なかったが、私なりにあなたの無念を世に知らしめすことが出来た。不十分とは思いますがこれで満足してくださいませんか。」
念入りに倒れないことを確認し、デジカメのタイマーを10秒に設定し、私は向こうの玉垣の前に立った。
デジカメのタイマーが発するオレンジ色の小さな点滅が10回10秒を数えた瞬間、あれと言う間もなくミニ三脚付きデジカメは倒れ、真っ逆さまに玉垣の中に落下した。
デジカメは、玉砂利の上に落ちた。
やはり起きたか。
何かが起きるとの予感は五輪塔を見た時からあった。
玉垣の中に手を差し入れ、デジカメを拾い上げると、ON/OFFのスイッチだけが潰れ、引っ込んでいる。そしてスイッチを何度も動かすも電源は入らず。
デジカメが壊れたのは残念だが、タイマーで撮った最後の『忠長の五輪塔と私』は、ちゃんと撮れているだろうと思った。
他方、以降の画像撮りは、デジカメ代用としてビデオでほんの数秒撮り、その映像の一部をコピーして画像とした。
尚、この五輪塔には約25分ほどいたが、最初に点火したろうそくは、風に吹かれても消えることなく、私が去るまで燃え続けていた。
☆ ☆ ☆
それから14日後、帰宅してからデジカメのメモリを取り出し、パソコンで再生させるも、撮れたはずの『五輪塔と私』の最後の1枚だけは消えていた。
やはり、そうか!
(註1)
(参考)
然し、不思議なことを更に思い出した。
初代デジカメは、関東のヨーカ堂の通販で9800円。
これを使って二年経った頃、夕闇の京都東山花灯篭で、知恩院さんを正面からパチリした時、突然、電源が切れ、写らなくなった。壊れたのだ。
(※)この日、大信寺参拝後、ホテルに戻り、それからJRに乗車し、新潟方面に向かいました。下記は以降の記事です。
『お嬢さん大学では「水上」をどう読むの?』 2016/8/30(火)
m