山本五十六記念館『赤い日本人形の秘密』
『山本五十六記念館』の前回記事の続編です。
Pearl Harbor have been a conspiracy of Franklin Roosevelt and a Japanese Navy Admiral Yamamoto.The tragedy at Pearl Harbor have been a carefully orchestrated design, initiated at the US highest government levels in order to galvanize a peace-loving American public to go to war. Franklin Roosevelt conspired to arrange the contest between the Japanese Navy and the US Navy on December 7, 1941, at Pearl Harbor.Seven Japanese naval broadcasts intercepted between November 28 and December 6 confirmed that Japan intended to start the war and that it would begin at Pearl Harbor. Evidence that poured into American intelligence stations is overpowering. Lt. Cdr. Joseph J. Rochfort, who commanded Station HYPO, Pearl Harbor, said later of our losses: "It was a pretty cheap price to pay for unifying the country." Rochfort is a US Navy officer. The price he says was pretty cheap was the mass murder of about 3,000 Americans.
以下、本論
私は入館し、正面に陳列してある五十六の遺品の一つ、赤い着物の日本人形を見て驚愕しました。
この人形に秘密がある。
(前回記事)
山本五十六記念館でのスパイ検証(前段) 2016/9/12(月)
(画像①)
さて、以降が山本五十六記念館の私から見た態様の一部抜粋です。尚、本文を短くするために本文内容の説明は(註1)~(註9)まで別途下段に記入してあります。
(仮説)連合艦隊司令長官山本五十六の履歴には何故か『大東亜戦争』という文字は一切無い。この意味は、五十六が反日で帝国日本海軍を殲滅させたことを遺族や長岡の五十六に関係した人々が知っていたからではないのか。
先ず、記念館の受付を通り、展示ルームに入ると、五十六の履歴が書かれた大きなボードがある。そこには、何故か『大東亜戦争』(米国では、太平洋戦争と称す)の文字は無く、『第二次世界大戦』と書かれている。尚、館内にも不思議なことに『大東亜戦争』という文字は全く見当たらなかった。
英文の聖書 (画像②)
説明文では『幼少の頃、キリスト教の牧師ニューエルから感化を受ける。この聖書(画像②)は米駐在時代に求めたもの』とある。(註1)(註2)(註3)(註4)(註5)
(画像3)
長岡中学校時代(16歳)に「フランクリン自伝」(英文)を読み、米国独立運動を指導したベンジャミン・フランクリンを深く尊敬し、自分のノートに「不乱苦林(ふらんくりん)」と命名し猛勉強をした。 ※フランクリンは凧を揚げ稲妻が電気であることを証明したことでも有名ですね。
(仮説)五十六にとって結婚した礼子の過度な厳正さで家庭は居心地が悪く、礼子と会わないように欧米への駐在を望んだのかもしれない。或いは、礼子が五十六の行動に疑惑を抱いたから五十六に対して冷淡だった可能性もある。
大正7年(1918)旧会津藩士(註6)三橋康守の三女礼子と結婚。
同年8月31日、水交社(すいこうしゃ)(註7)で簡素な結婚式をあげた。
(画像④)
※ 新妻礼子の祖父は会津藩士であり、礼子は厳格に育てられた。故に、五十六にとって家庭は安らぎの場所ではなかった。新橋芸者:千代子と逢瀬を重ねる五十六の心情を分からんではないが。尚、この千代子との遺品はこの館にはない。
新橋芸者千代子との詳細は(註8)のURLをクリック。
大正10年(1921)4月21日付、二度のアメリカ生活。
9か月に及ぶ欧米視察で国際的視野を身に着けた。
※ ハーバード大学に関しては後日別途記事にします。
何故に慰問品の人形に「ますみ」(真珠湾)と名付けたのか。
何故にこの人形を特に大切にし朝夕眺め続けていたのか。
(画像⑤)
※目測だが、人形の背は 50cm前後で、一般的に市販されている日本人形よりも背が高い。
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館内の説明文
「ますみ」(真珠湾)と、名づけられたこの日本人形は、慰問品のなかから、特に選んで大切にしてきたものである。朝夕、これを見つめて人形になぐさめられた心情ははかりしれない。人形の着物に山本家の家紋がついている。
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人形の着物にわざわざ山本家の家紋が織り込んでいるということは、普通の慰問品ではない。別注品であり、人形に色々と細工をした。ここに秘密があるとみる。
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真珠湾攻撃では、第三波攻撃まで計画されていた。それが第一波攻撃の老朽船撃破のみで、第二波、第三波攻撃で計画された真珠湾が軍港としての機能する補修基地や燃料タンク施設などの破壊は全くせず、第一波だけで引き上げたのである。
第二波、第三波攻撃が為されていたら、ありえないことである。
第二波、第三波攻撃で燃料タンクなどを含む燃料基地を爆破していたなら、真珠湾は軍港として半年から一年は使用できなかったはずである。、
肝心の第二波、第三波攻撃を回避した真珠湾攻撃。そもそも、素人はさておき、余程の新たな阻害要因が発生しない限り、プロ軍人なら計画の中断はありえない。
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大統領選で反戦を掲げて当選したルーズベルト大統領なのだが、真珠湾攻撃までの米国民の97%が反戦であり、それに米国議会も反戦であったのを、五十六の周囲の反対を押し切って愚行した真珠湾攻撃で、見事、米国民の大半を一気に好戦へと大逆転させたのである。
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更にもう一つ、
五十六は何故に朝夕日本人形に参拝したかである。
それは五十六にとって神棚に比すべき存在だからである。
この人形は単なる家紋が入ったものではなく、この赤い日本人形の中に神社のお札のようなものがあるからである。
それは何か、
ひょっとして、人形本体、もしくは台座がくり抜かれ、その中に米国の勲章が密かに収められているかもしれない。
思うに、この赤い人形「ますみ」(真珠湾)を分解しなくても、CTスキャン(X線撮影)にかけたら、それらしき陰影が映し出されるだろう。
(註1)宣教師ニューエルとは
『自伝を通してみたH.B.ニューエル』
(註2)宣教師の目的とは
(註3)『山本五十六の「聖書」 (中田安彦 / ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報)』より一部抜粋
そのとき山本中将は「いちばん得意なのはブリッジだ。これはまあ、将棋で言えば八段くらいだろうが、少なくとも東洋では私が一番だろう」と答えたという話が伝わっている。これは資料館の図録にも書かれているエピソードだ。この「凡将・山本五十六」を引用したあるブログは次のように解説している。
(引用開始)
「山本さんのブリッジはブラフ(はったり)が多いんだ。手が悪いのにふっかけてくる。僕は、ああ、これは山本さんのブラフだなと思い、堅実にやった。すると、必ず勝てた。普通の人は、山本さんのブラフに引っかかって、山本さんは博才があると思ったようだ。しかし、ブラフなんかに惑わされずに合理的にやっていけば、その方が勝つ」
(註5)太平洋戦争と戦後を作ったフリーメイソンの走狗たち
(註6)隠蔽されてきた会津藩蛮行の歴史 2014/11/5(水)
今の会津白虎隊などの会津史は捏造されたもので『会津観光史学』と称され、歴史的価値はほとんどない。東北の嫌われ者と言われているように会津藩、並びに会津藩士は各地で蛮行を繰り広げた。更に北海道をプロイセン(ドイツ)に売ろうとした。
(註7)東京の水交社(すいこうしゃ)とは、
広島・長崎に投下された原爆の秘密② 2014/8/22(金)
海軍士官の高級倶楽部「水交社」。住所:港区麻布台2丁目。
現在、この跡地は、フリーメンスが買収しビルが建っている。フリーメイソンにとって、価値ある水交社の跡地と言える。尚、ルーズベルトも山本五十六もフリーメンスであるとのことだから、跡地の買収は成程とも言える。(画像は借入しました)
(註8)
<恋愛の日本史・山本五十六-「提督の恋」>
「うつし絵に 口づけをしつつ幾たびか 千代子と呼びてけふも暮しつ」(五月二十七日付)
この短歌は、ミッドウェーへ向かった山本五十六から、千代子への手紙の中での一文である。
山本が初めて「梅龍」の芸名を持った新橋芸者・千代子を知ったのは、昭和八年夏である。もともと、山本は新橋の花柳界ではモテモテで、両手の指が八本しかなかったことから、〝八十銭〃のアダ名で親しまれていた。山本の妻はよく気のつく山本とは正反対の質実剛健な女性で、家庭的には冷え切っていた。
一方、、千代子はこの道に三十歳近くで入った、薄幸の女であった。似たもの同士で、愛情が深まったのである。昭和十二年に千代子は芸者から足を洗い、料亭の女将となった。東京芝神谷町に家を構え、ここを逢瀬の場にした。
注目すべきは、短歌も含む五月二十七日付手紙には、更に「私は国家のため、最後の御奉公に精魂を傾けます。その上は、万事を放耕して、世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。」と書いている。
つまり、ここで五十六は、その時の出撃が「最後の御奉公」であるということ。イコール、自分の死を偽装するシナリオを暗示している。
昭和18年4月18日午前7時30分すぎ、ソロモン諸島バラレ島におもむく途中、アメリカ陸軍の戦闘機の襲撃をうけ墜落し、全員が戦死したとしている。画像は連合艦隊司令長官山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式陸上攻撃機の左翼部分。
☆ ☆ ☆
(註)この日だけ五十六は最高司令官の服装をせず、何故か他と同じ草色の第三種軍装を着ていた。現地で遺体を最初に発見した複数の者の証言によると、五十六と称する遺体にだけはウジが全くわいていなかった。
他の遺体は全てウジで顔形が崩れていたものの。次に遺体を見た者たちの証言によると、五十六の遺体もウジで顔形が分からないほど崩れていた。但し、五十六であると称する遺体では、彼の特徴である指が二本欠けていた。体型で確認するために服を脱がそうとするも厳禁された。
この件で、上記撃墜されてから幾日が経って発見された機内での山本五十六の遺体だけは他の遺体と違ってウジが全く湧いていなかったとの証言を否定する証言は無い。遺体は、五十六でなく別人である。
尚、戦後、死んだはずの山本五十六をニューヨークやワシントンで見かけたとの複数以上の証言があるとのことだが、その証言の原本は見当たらない。証言者が誰かを知りたいものである。
他方、
『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』
著者 淵田 美津雄
淵田美津雄――。1941年12月8日、海軍中佐で総指揮官として真珠湾攻撃において最初の爆撃を行い、『トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)』の暗号を打電した男。
1950年6月、日本基督教団堺大小路教会の斉藤敏夫牧師主催の平和集会に共鳴し1951年、斉藤牧師司式のもと洗礼を受けた
昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官、第1次攻撃隊総指揮官機に搭乗して有名な「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ」の打電をした淵田美津雄中佐は「真珠湾攻撃は余りにもうまく行き過ぎた。
敵は作戦を事前に知っていて、わざと我々に奇襲攻撃を成功させたのではないか?」、「山本五十六大将は凡将である。せっかく育て上げた世界最強の航空部隊を解体し、弱体化してしまった。」等と正直に彼の著書で述べている。
彼は現場で戦闘経過を見まもる中、うっすらと山本五十六の正体に気付いていたのかもしれない。
(以下の記事もご理解に役立つものと思います)
『元米海軍ザカリアス氏が語る山本五十六スパイ説』 2017/3/23(木)
山本五十六のポーカーゲームのお友達であるエリスM.ザカリアス氏の証言や著書やTVでの発言に基ずく『山本五十六が米国へ日本の情報を流していた』ことの傍証です。これらのことは、ザカリアスが1946年に出版した自伝&論文『Secret Missions』(秘密の任務)に書かれています。
『The attack on Pearl Harbor is the strategy of President Roosevelt』
米国人から見た真珠湾攻撃とは、ルーズベルト大統領の指揮下で山本五十六が部下に演じさせたものです。1941年11月29日、米国務長官コーデル・ハルはニューヨークタイムズの記者に、パールハーバーは12月7日に攻撃される予定であること表明しました。
(画像借用先)
①⑤ 山本五十六記念館パンフレット
②聖書
③不乱苦林(ふらんくりん)
④結婚式