私はこうして生まれた



私たちは天文学的確率でこの世に生まれた。例えばもしも、地球の生まれる前から、そして人類が地球に出現し、祖先が何世代も繰り返した後の私の誕生まで、何かが一つ違ったら、私という存在は永久に無かったであろう。

その中で、私が何故に生まれることとなったかの大きなきっかけは、父の偶然なある出会いからであった。



それは、

父の33回忌と母の13回忌も終わった翌年の平成26年(2014年)の夏、田舎(本荘)の空家を見てくれていたお婆さんに、そのご主人が亡くなったことを機に、かねてから欲しがっていた空家にある仏壇をあげることにした。

その前日、仏壇の上の小さな隙間に茶封筒を発見。その中には、赤くなったA3わら半紙2枚のみが入っており、それは亡き父が各1枚づつ二度の転勤について綴ったものであった。

わら半紙の焼け具合から察すると、恐らく父は四〇歳代の半ばの昭和30年(1955年)前後、自己の半生記を書こうと着手したのかもしれない。

然し、それもたった二件の2枚で終わっている。と言うことは、父の半生にとり、この二つの出来事は終生忘れえぬことだったことを意味しているのかもしれない。

そして、その2枚だけを仏壇の上の隙間に忍ばせ、健在な時の父も母も、毎朝拝んでいたことになる。

父の一種の遺稿の最初のものを以下に記す。

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この文は、昭和18年(1943年)、父は羽後本荘駅秋田県由利本荘市)から道川駅に汽車通勤をしていた時から始まる。

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道川というと、父が昭和5年(1930年)、学校を卒業し、最初の勤務地であり、その後、転勤を繰り返すも再度二度目の道川勤務であった。

この当時、最初の道川や次の勤務地・上郷村長岡(現、秋田県にかほ市象潟町長岡)勤務時代の子供たちは、既に二十歳になり、立派な若者となっており、一家の大黒柱的存在であった。

その中でも上郷村の彼らが、大東亜戦争真っ只中で、食料等に困窮していた本荘町の父へ、米や炭や薪(まき)などを届けていたのである。

中には、炭を焼いた時に残る柴をやるからトラックを回せという者もいた。そこでトラックを頼むと、トラックは太目の柴を山積みにしてきたのだった。父はその柴を近所に分けて皆から大変喜ばれたそうである。

然し、戦争はいよいよ佳境に入り、各駅には警察の目が光り、米も炭も毎日必要な量を運ぶことは到底不可能だった。

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そんな昭和18年のある日の道川からの帰路の汽車の中で、父は「先生」と呼びかけられる。呼びかけた人は、上郷村長岡分校での小学生時代、級長をしていたE(遠藤嘉彦さん)であった。分校と言っても、一つの学年だけで30人もいたのである。

象潟駅まで乗車する上郷村の奈曽の白滝近くのEはたくましい若者に成長していた。父は一瞬クラスのボスKに殴られ歯を食いしばっていた彼を思い浮かべた。

父とEとは車中で色々話し合うのだが、本荘駅が迫った別れ際にEは言う。

「おらがたさ、こねが(私たちのところへ来たらどうか)。食料とアルコールだけは決して不自由させねよう、みんなでがんばるぜ」
父は「考えてみる。もしも行くことになったら頼むぞ」と答える。

帰宅した父は母と相談。
その時の子供は、4歳の姉、2歳半の長兄、1歳の次兄の三人であった。

父は、いたいけな子供たちに「これしかないぞ」などと、水っぽいおかゆを食べさせなければならない生活にはとても耐えられなかった。

意を決し、山村への転勤を願い出る。
当時、山への転勤を願い出る者などは皆無で、簡単に受理される。

そこで再度の鳥海山の麓・上郷村勤務が始まったのである。
お陰さまで戦中戦後、我が家では、食料や薪(まき)や、無論、アルコールにも一切不足することなく、寧ろ、数名の父の先輩諸氏に食料を分けてやったりもした。

例えば米びつの米が少なくなる都度、米俵1俵(60kg)が交互に届く。遠藤嘉彦さんや佐々木弥一さんなどから。

そして戦争はいよいよ熾烈(しれつ)となり、徴兵検査年齢も引き上げられた昭和19年(1944年)、上郷村の彼らも次々と招集されて行く。

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この文章は、ここで終わっている。父母が毎朝仏壇で線香を立て手を合わす都度、彼等上郷村の人たちにどんなに感謝していたのかが伺える。

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そういう状況下で4人目三男坊としてここ上郷村長岡で生まれたのが私である。私は父母が上郷村に引っ越した翌年である終戦を三ヶ月後に控えた昭和20年(1945年)初夏、この世に産声をあげる。



(参考)
私の履歴書 幼少~高校時代 目次
二十歳代 目次
三十歳代 目次