米軍の蛮行を糾弾しないと捏造・慰安婦問題は解決せず
『捏造:従軍慰安婦強行連行説』が何故噴出したかを知る為に。
今回のこのブログ記事は、ウィキペディアの一部抜粋である。
韓国が何故にありもしない『従軍慰安婦を強制連行』したと騒ぐのかは、以下の理由による。
米国としては、戦時中や戦後、ドイツやフランスや日本人女性に行った米軍による凄まじい強姦の歴史を隠蔽するために、朝日新聞を使い、更には韓国を使って帝国日本軍、イコール、日本国民を攻撃しているのである。
無論、朝鮮戦争時に、朴 槿惠(パク・クネ: 박근혜)大統領の父親朴正煕大統領が自国韓国女性を強制連行し、米軍の性の処理にあたらせたことや、ベトナム戦争時に韓国軍がベトナム女性を強姦しまくったことも隠す為でもある。
故に、『捏造・従軍慰安婦強制連行説』は、米国の蛮行を世界に知らしめ糾弾しないと、米国の指示で動いている韓国は手を引かない。
以下、ウィキペディアより、その一部を抜粋した記事を掲載する。
これを読んだだけでも、上記の私の言うことを理解できると思う。
英語では Recreation and Amusement Association と言い、RAA の頭字語で知られた。直訳は「余暇・娯楽協会」であり、日本語の名称との間で意味が大きく異なる。
RAAは、米軍の強姦を防ぐためであった。
RAAとは別に、米軍の女性兵士用の「慰安夫」も存在した。
百瀬孝らによれば、昭和21年に名古屋に進駐した女性兵士用に採用された男性は、内臓、眼、皮膚、血液、尿の検査を受け、松坂屋近くの木造アパートに数名の男性と一人一室が与えられ、半年間特定の女性伍長の専属になった。勤務は一日置き。食料は潤沢に与えられたが、体力的には過酷だったという
設立背景
以下の三点が設立背景とされる。
ヨーロッパの戦場で、米軍によるレイプの被害者が14000人(ドイツ人女性 11040人)いたこと。
第二次世界大戦当時、アメリカ軍は慰安所を設置しておらず、ノルマンディーに上陸したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性交を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためル・アーヴルでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している。
沖縄戦では米軍上陸後、強姦が多発したこと。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。“In Okinawa, US troops are estimated to have raped 10,000 Japanese women during World War II”。
アメリカ軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生したこと。占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた。
(注)日中、通勤途中の一般女性が襲われ、強姦されることは日常茶飯事であった。
RAA関連施設の設置場所
1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった。
東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている。RAAの施設は、東京・横浜をはじめ、江ノ島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった.
占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた。
国を挙げて売春を行う目的は、「日本女性の純潔を守る」ことであった。
実際、特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件で、
特殊慰安施設協会が廃止された後の、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数で330件だった。
しかし、複数の文献で、日本女性の純潔は守れなかった、とされている。
RAA設置中の性犯罪
進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した。
他にも、1945年9月5日に武装した米兵が鳩の街に来ている。このとき売春婦たちがおびえたため、業者は売春婦たちにウンと言わせ、客を取らせた。この後、これに続くように進駐軍の兵士は吉原や新宿二丁目の遊郭へ行き始めた。
さらに翌日、抵抗した慰安婦を米兵が絞殺するという事件が起こり、開業二日目で閉鎖された。開業後の慰安所では、どの部屋からも男たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が聞こえていた。精神を患う慰安婦、自殺する慰安婦も少なくなかった。
9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された。9月5日には神奈川県の女子高校が休校した。
武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された。
その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目ゆきは占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている。
日本人婦女子凌辱事件
この米軍にとって不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵されていた。
(注)日本共産党の役割は、『日本国民の憤怒のガス抜き』である。
その後
朝鮮戦争時
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し、関係諸国との請求権問題を解決し、また同時に在日米軍の駐留が容認された。
しかし、その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも
殺人8、過失致死435、強姦51,暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、
1954年2月には宇治市大久保小学校の四年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、
ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した。1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた
GIベビー
詳細は「GIベビー」を参照
占領軍兵士と日本人女性との間の混血児をGIベビーといい、1953年の厚生省調査によると国内で4972人が確認された[59]。パール・バック財団の調査によると少なくとも2-3万人にのぼるともいわれ、ほかにも沢田美喜のように20万とする説もある。