満鉄(東清鉄道)と米国概略
日中戦争⇒大東亜戦争の伏線となる満州を舞台とする鉄道利権と米国の激怒に関しての分かり易い概略記事がありましたので、それを以下に紹介します。尚、青文字の(註)は私が加筆したもので、地図の挿入もそうです。
本題
軍部主導政治が戦争に向かわせたのか
2011-04-01(Fri) JJ太郎氏
戦後教えられた歴史は一旦忘れたほうがいいかもしれません。
私が学校で学んだ戦前の歴史のターニングポイントは2・26事件、5・15事件であり、武力によって政党政治を壊滅し、軍部主導の政治になって戦争への道を歩んだ、というものでした。
しかしながら、大人になって自分で歴史を調べてみると、軍部主導の政治になっても日本から戦争を仕掛けたり侵略するような能動的計画も行動も存在しません。
すべて受身で後手後手に回り、止むえず戦争になっています。学校で教わったのはGHQが仕込んだ日本軍悪玉論だったようです。
奉天以南の東清鉄道(註2)の日米共同経営する仮規定です。これはニューヨーク~アメリカ大陸横断鉄道~南満州鉄道~シベリア鉄道~大西洋航路~ニューヨークという「地球交通」という大規模プロジェクトの一貫です。
シベリア鉄道と完全に連結したのは1904年2月、日露戦争勃発直前であった。その後日露戦争(1904年2月 - 1905年9月)が勃発し、日露戦争でロシアが敗北した後の1905年9月5日、ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。1911年、辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる東清鉄道の利権は継承された。(中略)
1935年3月になってソ連は満州国と北満鉄道讓渡協定を結んで北満鉄路全線の利権を満洲国に売却し、満洲から撤退した。こうして旧・東清鉄道は満洲国有鉄道となり、経営は満鉄に委託された。(以上、ウィキペディアより一部抜粋)
ところが小村寿太郎外相は来日したハリマンの帰国(1905年10月13日)の3日後、入れ違いに米国から帰国し、協定に驚き、小村は既にハリマンの商売敵モルガンを推していたので強行に反対し、この協定を破棄させてしまいました。(註3)
(註3)当時の状況の詳細に関しては、この記事の最後尾に紹介している記事『松村金助の満州事変前の満鉄』のURLをクリック願います。
ドイツのフォン・グレイル前駐北京大使はベルリンで会議を開き「中国の日本化が進むと欧州の権益が失われる」と主張し、「米、英と協力し、日本を押さえ込まねばならない」(ニューヨークタイムズ)と政府に警告を発しています。
日本を孤立化させ、米国は日本を仮想的国として大陸への進出を着々と狙っていったのです。
そして欧州で第二次世界大戦が始まると日本を戦争に引きずり込む計画をたて(マッカラムメモランダムといわれるもの)、空軍(フラインングタイガース)を支那に送り込み、石油や屑鉄の輸出をストップさせ、日本の対外資産を凍結し、昭和16年(1941年)9月には日本爆撃(陸海軍合同委員会計画JB-355)を大統領が許可しました。
(地図画像借用先)
yumimi61
松村金助の満州事変前の満鉄
(参考)
「反日に狂う中国、友好におもねる日本」金文学著。
わたしの聞き込み調査の中で、大変驚いた証言が返ってきました。当時満州国で暮らした多くの人々は、実体験を交えながら、こう語りました。
「もしも満州国がそのまま維持されたならば、現在のようなみじめなことはなかった。日本みたいに発展したはずだ」
満州映画製作所で働いていたZ氏は、「日本人は残虐だ、悪人だと言うけれど、わたしはそんな日本人には会ったことはない。われわれは仲良くやりましたよ」と回想しています。
《東清鉄道に関しての詳細》