コミンテルンの画策した戦争だった


日中戦争大東亜戦争は、コミンテルンの陰謀・画策により、日本が負ける戦略で勃発し、シナリオ通り日本は敗戦した。

(※)コミンテルンとは、
ソ連の指導者レーニンロスチャイルドやロックフェラーから資金を得て(途中省略)1919年、世界共産化を目指してコミンテルンを創設したもの。
レーニンの『敗戦革命論』とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略。



習主席、中国は「日本に完勝」し「主要国」に 抗日70年行事開幕
2015年09月03日 13:39 発信地:北京/中国
【9月3日 AFP】(写真追加)中国の首都・北京(Beijing)で3日、抗日戦勝利70周年を祝う大規模な式典が開幕し、習近平(Xi Jinping)国家主席は演説で、中国は第2次世界大戦(World War II)で日本に「完全勝利」し、「世界の主要国としての地位を回復」したと述べた。

 習国家主席は「不屈の中国人民は、日本の軍国主義の侵略者と勇敢に戦い、最終的に完全勝利をもぎ取って、中国5000年の文明を守り、平和という大義を支えた」と語り、戦争を「正義と悪、光と闇の決定的な戦い」と評した。(c)AFP



私見
① 日本軍は、毛沢東中共軍とは戦っていない。
戦ったのは台湾に逃げた国民党の蒋介石軍とである。

毛沢東中共軍は米国から武器弾薬の援助を受けるも、それを使用せず温存。後の毛沢東革命の時、中国人民6千万人を殺害するために使用した。

② 日本の関東軍は侵略していないし、日中戦争侵略戦争ではない。
主な事件や戦闘勃発は中国側が仕掛けている。

2006年、明らかになったことは、東京裁判で日本の侵略戦争の緒と称す『張作霖(ちょうさくりん)爆破(1928年6月4日)』は、スターリンの指示を受けたナウム・エイティンゴンが計画し 日本の関東軍の仕業に見せかけたものだった。
(※)産経新聞」06/02/28

この裏付けは当時の英国への電報でも明らかである。

※『中国共産党の秘密党員(?)であった張治中がスターリンの指示(?)により、蒋介石の方針に反して、日中を全面戦争に引きずり込むべく、第二次上海事件を引き起こした。(1937年)



上記の件をもう少し分かり易く言うと

ソ連が支配する東支鉄道の利権を脅かす張作霖を暗殺し、より操り易い張学良をを使って関東軍との間に対立を起こさせるように」というモスクワの指示により、GRU(ソ連労農赤軍本部第4局)が日本軍の仕業にに見せかけるシナリオを書き、2つの工作を同時進行して行った。

1つの工作は、関東軍がやったと皆に信じさせる洗脳工作。
張作霖を爆殺する事によって、関東軍に「満州を押さえられるんだ」という考えを吹き込む工作も同時にやっていた可能性も有る。

もう1つの工作は、ソ連工作員による実際の爆破工作で指揮したのはナウム・エイティンゴンというソ連工作員。そのナウム・エイティンゴンの指令を受けた部下が張作霖と同じ列車に乗っていた。

後にナウム・エイティンゴンは、橋梁や線路の爆破ぐらいでは致命傷は与えられないから、自分たちが爆破に直接関係したと言って、破壊された客車の写真を撮り それを自分の功績、証拠として自分の回顧録に載せて「自分がやった」とハッキリ言っている。

今、スタンフォード大学で「蒋介石日記」というのが順次公開されているが、その中で"張作霖の息子の張学良が張作霖爆殺の1年前の頃に国民党員になった"と書かれているのが平成18年の4月に明らかになった。

当時、張作霖は国民党軍を率いる蒋介石と闘っていたが、その張作霖の息子が国民党に入っていた。蒋介石はモスクワと繋がっていた。

つまり、張学良、蒋介石コミンテルンという3つの繋がりが間違い無く存在していた。

ならば、張作霖爆殺の背景、動機、要素として全て揃う。
更に、ナウム・エイティンゴンという実行者の告白証言も有る。

これが事実ならば、張作霖爆殺が日本の支那に対する侵略戦争のはじまりだとしている東京裁判の評価見直しにも重要な意味合いを持つ事になる。



上記の内容を踏まえて更に詳しく述べると

張作霖満州の実権を握っていた奉天軍閥の首領だった。もともとは馬賊頭目にすぎなかったが、満洲駐在の関東軍に接近して庇護を受けるようになってから勢力を伸ばし、1911年の辛亥革命後、当時の実力者・袁世凱のもとに走り、満州の中心地・奉天(現・瀋陽)を中心に力をつけた。支那全土を掌握しようとして、一時は北京まで攻めのぼった。

1927年(昭和2)、国民党軍の北伐に対抗するため、北京に陣取る軍閥は「北方安国軍」を組織して、張作霖大元帥の地位についた。

それに対して、下野していた蒋介石が北伐(国民革命軍)総司令として復帰すると、軍閥の馮玉祥や閻錫山ともてを結んで共同戦線を張り、北京に攻め上ってきた。そして北京の南方に200キロにも及ぶ戦線において対峙し、南北大決戦の様相を呈してきた。

このあたりには列国の居留民が多かったので、列国は共同で北軍と南軍(国民革命軍側)の総司令官に、「列国の支那駐屯軍は南北いずれの軍にも味方しないが、どちらかが居留民の生命や財産に危害が及ぼされた場合は加害側に断固たる処置をとる」と警告を発した。

戦場においては北軍が不利だった。張作霖満州に逃げてきて、それを南軍が追うようになれば、満州が戦場になってしまう。

満州には日露戦争以来、日本の権益が確立しており、山海関を越えて支那の軍隊が満州を侵略してくる事態は日本はどうしても防がなければならない。

ところが、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると、張作霖支那の軍隊を連れて満州へ逃げようとした。

満州の実質的な支配者が支那の軍隊を満州に引き込んだら、満州支那になってしまう。また、これを口実に蒋介石が追い掛けてくると、満州支那の軍隊が争う戦場になり、日本の権益は危険にさらされる。

張作霖はじわじわと日本の特殊権益を侵すようになっていた。
ひとつは鉄道権益の圧迫である。

1924年(大正13)、満鉄線に平行して鉄道を敷こうとした。
平行線ができれば満鉄の収入は激減してしまう。

また、コロウ島に新しい港を築いて、大連の港を枯死させようともした。
日本は張作霖を後押ししたために張作霖満州で威張れた。

それにもかかわらず日本の権益を侵そうというなら、そんな奴は殺してしまえという意見も出たかもしれない。

こういった緊迫した状況にあった昭和3年(1928)6月4日、北京制圧を断念した張作霖は列車で満州奉天に向かったが、その列車が爆破された。張作霖は運び込まれた病院で死亡した。

張作霖の死は、奉天省長の意向もあって二週間以上伏せられたままだった。張作霖軍に動揺が走るのを避けるためだったといわれる。

この爆破事件に対して関東軍支那人の便衣隊(ゲリラ)の仕業に違いないという見解だった。しかし、時がたつにつれ、どうも関東軍の謀略だったのではないか、という見解が強まった。しかし真相はなかなかつかめない。

田中義一首相は天皇に対して曖昧な報告をしたため、天皇は「おまえのいうことは信用できない」と田中首相に不信感を示した。そのため田中内閣は辞職せざるをえなくなった。田中儀一は辞職後まもなく亡くなった。この件での心痛や落胆が病死が原因らしい。

当時の満州では、鉄道をめぐる事件が頻発していた。
数年間の間に100件以上も鉄道爆破事件があった。

満州には匪賊と呼ばれるテロリストたちは推定100~300万人いたといわれる。「土匪」(いわゆる馬賊)のほかにも「半農半賊」(状況次第で匪賊になる連中)、「宗教匪」(宗教的秘密結社)、「政治匪」(敗残兵たち)、「共匪」(共産ゲリラ)・・・などが神出鬼没、昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件を数えた。

張作霖爆死事件も一時はそのうちの一つと考えられていた。
だからこの事件も結果的には大きな国際問題にならなかった。

しかし、この事件は日本の満州侵略の始まりであるかのようにいわれるようになる。日本はこの爆殺事件を支那の便衣隊のせいにして、それをきっかけに満州全土を領有しようとしたといいたいわけだ。

東京裁判では、昭和6年満洲事変を「日本の支那侵略の第一歩」ととらえ、それから敗戦(昭和20)年までの15年間を「日本軍国主義の時代」として断罪した。


そうした見方に便乗して、日本の左翼の歴史家たちは大東亜戦争を含むこの前の戦争を「日中十五年戦争」と呼んでいるわけだ。

もっと過激に「いや、その前の張作霖爆殺事件あたりから日本の侵略ははじまっている」とする左翼学者もいる。

そうした見方が戦後の歴史教科書にも脈々と受け継がれ、日本人にかたよった歴史観を植え付け続けている。(以下省略)



私見
日中戦争とそれに続く大東亜戦争とは、簡単に言えば、『ソ連コミンテルンソ連と国境を接する日本をアメリカを使って叩き潰すというソ連コミンテルンの戦略に基づき、米国や日本、中国の政府機構にスパイを送り込んで、或は洗脳し、シナリオ通り実践させたもの』と言えますね。

米国の場合、アメリ共産党の外廓組織「中国支援評議会」の名誉会長がルーズヴェルト大統領の実母ジェームス・ルーズヴェルト夫人であることから推測出来るように、ルーズベルト大統領は共産主義なんですね。

ルーズヴェルト政権ではソ連のスパイたちを重用し、政権中枢部だけでも200人以上も。政権の一般部署にも300人以上のスパイがいたわけです。

その中には、ラフリン・カリー大統領補佐官ハルノートで有名な財務省通貨調査局長のハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)もいました。

日本でのソ連のスパイの代表的な人物は近衛文麿大東亜戦争(太平洋戦争)直前までの近衛内閣(1937年6月~1941年10月)のブレーンだった尾崎秀実。

近衛内閣では、ゾルゲ・グループの尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を閣議決定し、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど『連ソ・反米政策』を推進。米国との戦争必然体制を構築するんです。

別な言い方をすると、共産主義近衛文麿首相が、日本軍による中華民国内部の共産主義勢力の破滅を防ぐためにソ連と画策し、日本と米国とが戦争せざるを得ない状況にしてから首相を退任し、後任の首相となる貧乏くじは東条英機が引かせた。



(註)消えたはずのコミンテルンは今も米国に根付いている
オバマ大統領の血と思想の源 2013/9/1(日) 


(参考・引用サイト)

(私のブログ記事)

政治はスパイに主導権有り! 2013/8/30(金)

メディアが伝えない大東亜戦争① 2015/8/4(火) 

メディアが伝えない大東亜戦争③ 2015/8/11(火)