日本の心『自衛隊』


先ずは短いユーチューブから。

(※)追記
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自衛隊の感動する話】自衛隊カンボジアPKO【1分涙腺崩壊】



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下記は、多くの人が転記している記事ですが、改めて以下にしたためます。

何故に今更改めてと申しますと、自衛隊海外派遣恒久法案』(安全保障関連法案)が今夏に成立すると、次に待ち受けているのは、CIAの演出する中東や南シナ海での米軍の戦闘に自衛隊の戦闘員としての派兵です。

こうなってしまっては、日本の自衛隊が海外でどんなことをしようが、下記のような自衛隊を好意を持って迎えてくれることは無くなるでしょう。

残念ですが。



■■ Japan On the Globe(378)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

        The Globe Now: サマーワに架けた友情の架け橋
自衛隊イラク支援活動によって得られた信頼と友情は「日本人の財産」

■1.前代未聞の感謝デモ■

イラクでは噂が伝わるのが速い。昨年12月14日の自衛隊の派遣期間が終わりに近づき、またロケット砲が打ち込まれるという騒ぎが起こると、「自衛隊は帰るのか?」という懸念が瞬く間に広まった。

すると140人の老若男女からなるデモ隊が「日本の支援に感謝する」と自衛隊宿営地に詰めかけ、口々に「帰らないで」と懇願した。同時に「自衛隊の滞在延長を願う署名運動」が展開され、2日間で1500人もの署名が集まった。

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実は感謝デモはこれで二度目だった。4月に2度、自衛隊宿営地そばに迫撃砲が撃ち込まれると、サマーワ市民による百人規模のデモ行進が行われた。

スローガンは「日本の宿営地を守ろう」というものだった。

さらにいろいろな人が宿営地に来て、「申し訳ない。あれは一部のはねっかえりで、イラク国民の意 思ではない。どうか帰らないでくれ」と陳情した。

前代未聞のデモに、英米オランダ軍も驚いて、自衛隊に矢継ぎ早に問合せをしたほどだが、迫撃砲を撃ち込んだテロリスト達もこれでは逆効果だと思ったのだろう。その後、派遣期間終了の近づく11月まで動きはなかった。

もっともこうした事実は、日本のマスコミはほとんど伝えなかった。

逆にパレスチナ自治政府のアラファット前議長の死去を受けてサマーワで行われた「パレスチナ支援デモ」では、20本ほどの横断幕のたった一つに「自衛隊は撤退すべきだ」と書かれていただけで「反日デモ」などと報じた新聞があった。偏向報道もここまで来れば、確信犯という他はない。

■2.「カーネル・サトウはサマーワの人々の心に到達した」■

自衛隊によるイラク支援は、活動当初からイラクの人々の心を捉えるよう綿密に準備されたものだった。

先遣隊隊長として乗り込んだ佐藤正久一等陸佐は今回が3度目のPKO参加。最初のカンボジアの後に、ゴラン高原で一次隊長を務めており、中東人とのつきあいを体験的に心得ていた。

風貌も中東人風で、豊かな口ひげがよく似合う。現地では「絶対に破らない約束をする」時、互いのヒゲを触る決まりがあるので、相手の家に招待された時などは、ヒゲが重要な役割を果たした。

さらにイラク人の衣装を貰って、食事に招待された時にはこれを着ていった。

現地の人々と車座になって、右手で食べる。こうした姿勢をイラク人は「我々の伝統的文化を尊重してくれた」と非常に喜んだ。ある部族長は「カーネル(大佐)サトウはサマーワの人々の心に到達した」と語った。

帰国直前には「イラクから帰ってくれるな。嫁と家は準備するから」とまで言われた。アラブでは妻は4名まで持てるので、あと3人は大丈夫だというのである。

■3.「カーネル・サトウを悲しませたくない」■

先遣隊の仕事の一つに宿営地の準備があったが、この土地の借用交渉がなかなかまとまらなかった。地主が法外な値段をふっかけてきたからだ。

日本のマスコミはこれをさも現地が自衛隊を歓迎していない証拠であるかのように報道したが、佐藤一佐の思惑はもっと深い所にあった。

私には合意を急ぐという気持ちは毛頭なかった。交渉でぎりぎりまで粘って、我々の想定額にできるだけ近づけたいと思っていました。理由があったからです。

「我々は占領軍ではない」ことをイラクの人たちにアピールするため、しっかりと契約を交わして、お金を払って宿営地をつくることを見せたかった。

それと、我々と同様に土地交渉を行っているオランダ軍の交渉に影響を与えないようにしたかった。悪い前例を残さないような妥当な金額で決めたかったのです。ですから、はなから安易に折り合う気はなくて、時間をかけていこうと腹を決めておりました。

ゴラン高原での経験からも、中東での交渉事は、じっくり時間をかけて、まず人間関係を作る所から始めなければならない、と心得ていた。そのために約1ヶ月半の間に約10回も会って、時にはお茶を飲みながら、日本の文化を紹介したりまでした。

こうしたプロセスを経て、最後には相手は「カーネル・サトウを悲しませたくない」と言って、きわめて妥当な金額で折れてくれた。

■4.「我々はあなた方の友人として、サマーワに来た」■

番匠(ばんしょう)幸一郎一等陸佐が率いる復興支援の本隊・第一次イラク復興支援群がサマーワに近づくと、道行く人々が遠くの方からも大きく手を振った。


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最初は外国人が珍しいのかなと勝手に思っていたのですが、そうではなくて、彼らは日本の自衛隊だとわかって手を振っていたのでした。子供たちは「ヤーバニー(日本人)」と声を上げながら走り寄ってきて歓迎してくれました。
       
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装甲車両には色鮮やかな日の丸が描かれている。隊服の右胸、左袖、背襟下にも遠目にもよく目に見えるほどの日の丸をつけていた。


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多国籍軍側からは「これでは『撃ってくれ』と言わんばかり。お前らはどうかしている」と何度も忠告されたが、イラク人に「自分たちは日本の自衛隊」であることをことさらアピールしたかったからだ。

サマーワにつくと、番匠一佐は現地の人々に繰り返しこう語って理解を求めた。

         我々はあなた方の友人として、日本からサマーワに来た。
        我々日本も、60年前の先の大戦で敗れ、国土は焦土と化
        した。すべてが無に帰し、食料にも困る日々が続いた。

        んな廃墟のなかから、私たちの祖父母、父母の世代は立ち
        上がり、大変な努力をして、日本を復興させた。そして、
        その結果、いまや経済力世界第二位という日本を築き上げ
        ることができた。

         メソポタミア文明という人類にとって偉大な歴史を有す
        るあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に同じこ
        とができないはずはない。我々は友人として、あなた方が
        立ち上がるお手伝いに来たのだ。

イラク人にとっては、日本は同じアジアの国である。さらに自分たちと同じようにアメリカにやられた国だという意識があったようだ。

その日本から「友人として助けに来た」という番匠一佐の言葉はイラク人の心に響いたに違いない。

                                 つづく


(参考)

番匠幸一郎(ばんしょう こういちろう)

1958年(昭和33年)1月 - )
陸上自衛官。西部方面総監(35代)。
鹿児島県鹿児島市出身。 
防衛大学校本科第24期卒業。
職種は普通科
防衛大学校の同期に中谷元・田邉揮司良・磯部晃一・松尾幸弘・福田築。 2004年からの自衛隊イラク派遣では第一次復興支援群長(当時は1等陸佐)を務めた(第1次イラク復興支援群長当時、同時に派遣されていた第1次イラク復興業務支援隊長は佐藤正久(元1等陸佐))。


朝日新聞2004年3月18日朝刊紙面より一部抜粋)
※ここに掲載してある箇所のみは、まともに書いている。

砂嵐の季節を迎え始めたイラクサマワ陸上自衛隊員約600人を率いる番匠(ばんしょう)幸一郎1佐(47)。東京・市谷の防衛庁陸自全体の約15万人を統括する陸幕長の先崎(まっさき)一(はじめ)陸将(59)。

 毎日ほぼ欠かさず、現地の午前6時半(日本の昼12時半)から約10分。

 「おはようございます。番匠です」
 「おお、おはよう」

 現地の状況報告が始まる。緊張を強いられる警備の実情、隊員の疲れ具合、宿営地の天幕に入り込むネズミ……。

 先遣隊の到着から2カ月。現地での作業は部族長らとの関係作りや宿営地の建設が中心で、まだ給水などの本格的な支援活動に至っていない。

 「功を焦るな。じっくり基盤を作れ」。先崎はそう強調する。

◇商社へも出向

 番匠は早くから「将来の陸幕長候補の一人」と評されてきた。防衛大、幕僚養成課程など、幹部への登竜門をトップ級で通過した。中枢の陸幕防衛部では通算8年、日米ガイドライン策定などの重要施策に携わった。

 だが、彼の一番の強みは「番匠さんが率いるなら、イラクでも行く」と部下に言わしめる誠実な人柄と指導力だ。「目線が隊員レベルにあり、一人一人を把握している」と先崎も信頼する。

 外務省や商社へも出向した「国際派」だ。

 各国の陸軍に知己がいる。イラク戦争時の米陸軍参謀総長で、その戦略をめぐってラムズフェルド国防長官との確執がうわさされたシンセキ大将もその一人だ。

 99年から1年間、米陸軍大学(AWC)に留学した。そこでの体験を、番匠は忘れられない。

 現代戦で最も重要とされる戦場の情報を、米軍が各国とどこまで共有できるのか、教官が同盟国の信頼度を表す三重の同心円を示した。

 中心に米国、英国、ドイツ、フランス。次の円内にはイタリア、オーストラリア、カナダ、オランダ。日本は最も外側の円の「others(その他)」にあった。

 授業が情報の核心に及ぶと、「others」組留学生は教室から閉め出されることもあった。

日米同盟を「最も重要な2国間関係」と考えていた番匠はショックを受けた。帰国後、私的な勉強会で語った。

 「日本以上に米国と親密な国は多い。広く世界と付き合っていかなければ、日本は世界から宙に浮いてしまう。自衛隊が孤立しないための方策を、自分は模索したい」

 ◇新たな同盟へ

 サマワに入った直後の3月初め。迷彩色の戦闘服をつけた番匠は、宿営地に立つ天幕内で取材に答えた。

 「国際協力は防衛力の役割の中で大きな位置づけを持っている。この傾向は強化されていくと、私は思う」

 先崎も「国際化」の流れの中で、自衛隊の新しい役割を探ろうとしている。イラク派遣をこう位置づける。

 「日本が『有志連合』という枠組みに対等にコミットするという国家意思の表明と思う。これまで日本防衛に焦点が当たっていた日米同盟の新たな展開でもある。厳しい治安状況での人道支援で、50年間積み上げてきた陸自の真価が問われる」

 だが、先崎ら陸自の指導部がイラク派遣を主導してきたわけではない。

 むしろ、慎重だった。「準戦場」とも言えるイラクの現実は、自衛隊の実力のレベルを超えている。憲法解釈の想定外の事態に追い込まれる可能性もある。

ここで失敗すれば、92年のカンボジアPKO(国連平和維持活動)から始まった陸自の国際化は大きく後退しかねない。

 政府がイラク派遣を決めた以上、従うしかない。最悪の事態を避けるために全力を尽くす。番匠起用の理由はそこにあった。

 サマワでの派遣部隊の活動は平穏なように見える。「今のところ。今のところだ」。先崎はそう周囲を戒める。

 異変が起きたら――2人の指揮官をつなぐ電話が、危機管理の成否を決める神経系となる。その荷の重さに、多くの人は気づいていない。 (以下省略)