改めて日本軍とパラオの記事
これを機会に改めて日本とパラオに関しての記事を掲載します。
◆
NHK 4月9日 21時30分
(フジTV)
(日テレニュースより一部抜粋)
両陛下、米軍慰霊碑にも供花
ペリリュー州のシュムル知事は、慰霊が行われる4月9日を「天皇皇后両陛下ご訪問の日」として、今後も州の祝日とすることを法律で決定したと、7日、初めて明らかにした。
今日こそ改めて見直さなければならないこと 2011/12/23(金)
(ユーチューブ)
日本とパラオ ~歴史を越えた友情~
パラオと日本に関しては沢山の記事やユーチューブがありますね。
その中の一つ
(参考)
●以下の記事が大変分かりやすく述べられていますので一部を抜粋し掲載します。
(一部抜粋)
という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。
さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した一万人余の英霊を決して忘れていません。日本から遺骨収拾に行くと、
「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」
と言うそうです。
現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」(三角錐型)が建っています。それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあうように建立されました。
(※)慰霊碑(1992年時、右:舩坂さんが建立したもの・中央:ペリリュー島みたま会が建立したもの・左:日本政府が建立したもの)
すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、十日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。
そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
〔英文の碑文〕
TOURISTS FROM EVERY COUNTRY WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD BE TOLD HOW COURAGEOUS AND PATRIOTIC WERE THE JAPANESE SOLDIERS WHO ALL DIED DEFENDING THIS ISLAND
PACIFIC FLEET COMMANDER IN CHIEF (USA) C.W.NIMITZ (BUILT NOV.24.1994)
〔日本文の碑文〕
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ※
米太平洋艦隊司令長官
C.W. ニミッツ
◆
昭和五十六年一月、パラオ共和国が誕生した時、日の丸をデザイン化した国旗を制定しました。
それと共に、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌も作りました。
作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両氏。
☆
題 「ペ島の桜を讃える歌」
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
(※)この歌はユーチューブにありました。
ペ島の桜を讃える歌 (歌:御堂 諦)
◆
ペリリュー島の玉砕戦を、日本の国花・桜に託し、見事に謳いあげた歌詞です。ペ島の勇者を弔う歌として、これ以上のものは作れないのではないか。
守備隊員は、サクラ・サクラという最後の電文を打って、文字通り集団の桜花のように散っていったのです。島民からこのように讃えられて、一万の英霊も、もって冥することができるのではないか。
私は深い感動に襲われながらも、桜を見たことのない島民が、日本語を使って、よくぞここまで作れたものだ。ひょっとしたら、著者の船坂さんが相当補作されたのではないかー―ー失礼ながらそんな疑問が湧いてきました。この疑問を率直に、著者に投げかけてみました。船坂さんの答は次のようなものでした。
「たしかに、ペリリュー島には桜はない。島民は殆んど桜を見たことがない。しかし、彼らは戦前日本の教育を受けている。それだけに、日本人よりも美しい桜ヘのイメージがある。
それに彼らは、戦争直後、倒れた多数の軍人の遺体を葬り、今でも毎日一万の英霊と共に生活しているのだ。歌詞にあるように、ペ島はすべて墓地なのだ。それだけに、日本人以上の気持がこの歌詞となって結晶したと思うのだ。それを汲みとってほしい」
この歌は同時に作曲もされました。作曲者は同島小学校副校長、ウィンティ氏。彼らは今もこの歌を愛唱しているそうです。
(参考)以下、お時間がある方はどうぞ
NHKは国内海外を問わず大日本帝国時代を知る人々のインタビューを捏造して放映してきた。例えば台湾の場合、台湾人は日本統治時代は素晴らしかったと証言しているが、NHKでは、その部分を全部カットして放映した。
下記ユーチューブは、捏造とやらせの得意なNHKだから、台湾のインタビューと同様、恐らく証言者の肝心な言葉の部分をカットしたものでしょう。
NHKスペシャル「狂気の戦場 ペリリュー~“忘れられた島”の記録~ - P1
10分10秒
掲載画像は借用したものです。