埋葬したという遺骨を発掘しない中国
(私見)
米国は、自分たちが行った国際法違反の東京空襲や広島・長崎への原爆投下による民間人大虐殺の蛮行から目をそらさせる意図で南京陥落後日本軍による大虐殺が有ったと捏造した。
更に付加すると、米国・英国・オランダ等にとって大日本帝国陸軍の南方の国々で行った大東亜共栄構想に基づく活動は、彼らの貴重な搾取先である植民地に独立心を惹起させるもので、許しがたいものであった。
『The attack on Pearl Harbor is the strategy of President Roosevelt 』 2016/12/8(木)
以下、捏造された南京大虐殺とは
(ある遺族の話)
『(南京の)下関の埠頭の斬首行為は父が、私が小学3年生の時に話した出来事です。父は当時のことを思い出したのか、相当の回数、両腕を振り上げては降ろし、首を斬る動作をして最後に「さすがの揚子江も真っ赤になった。」と言って大笑いしていました。』
(東京裁判で埋葬したという遺体の確認)
【紅卍字会南京分会】により【下関区に埋葬された遺体数】に着目してみました。下記がその一覧になります。
(※尚、下関区において埋葬された遺体は【男性(=成人男性)】のみの様です。)
地図で確認してみると、ずい分と狭い範囲に【16,123人】もの遺体が埋葬されている事がわかります。
いわゆる『南京事件』の真相を追究するのであれば、この【下関区】における【埋葬遺体調査】は非常に有効だと思われます。しかしながら、その様な調査が本格的になされたという事実は伝わってきていません。
----- 世界紅卍字会南京分会埋葬表(※下関埋葬分) -----
日付 男 備考 埋葬地点
1937年02月12日 1,191人 下関渡固里で収容 下関渡固里
1937年02月18日 480人 下関長江沿岸で収容 下関九甲[※ウ]
1937年02月19日 524人 下関魚雷軍営脇で収容 下関魚雷軍営脇
1937年02月20日 197人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
1937年02月21日 226人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
1937年02月21日 5,000人 下関魚雷軍営埠頭で収容 下関魚雷軍営埠頭
1937年02月21日 147人 幕府山脇で収容 下関石榴園
1937年02月22日 151人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
1937年02月22日 300人 下関魚雷軍営埠頭で収容 下関魚雷軍営埠頭
1937年02月25日 85人 下関各地で収容 下関姜家園
1937年02月26日 1,902人 幕府山脇で収容 下関石榴園
1937年02月26日 194人 石炭港埠頭で収容 下関東砲台
1937年02月27日 591人 上元門内一帯で収容 下関上元門外
1937年03月01日 1,346人 幕府山付近で収容 下関石榴園
1937年03月03日 786人 幕府山付近で収容 下関石榴園
1937年03月06日 1,772人 下関石炭港河辺で収容 下関石炭港河辺
1937年02月12日 1,191人 下関渡固里で収容 下関渡固里
1937年02月18日 480人 下関長江沿岸で収容 下関九甲[※ウ]
1937年02月19日 524人 下関魚雷軍営脇で収容 下関魚雷軍営脇
1937年02月20日 197人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
1937年02月21日 226人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
1937年02月21日 5,000人 下関魚雷軍営埠頭で収容 下関魚雷軍営埠頭
1937年02月21日 147人 幕府山脇で収容 下関石榴園
1937年02月22日 151人 魚雷営埠頭で収容 下関草鞋閘空地
1937年02月22日 300人 下関魚雷軍営埠頭で収容 下関魚雷軍営埠頭
1937年02月25日 85人 下関各地で収容 下関姜家園
1937年02月26日 1,902人 幕府山脇で収容 下関石榴園
1937年02月26日 194人 石炭港埠頭で収容 下関東砲台
1937年02月27日 591人 上元門内一帯で収容 下関上元門外
1937年03月01日 1,346人 幕府山付近で収容 下関石榴園
1937年03月03日 786人 幕府山付近で収容 下関石榴園
1937年03月06日 1,772人 下関石炭港河辺で収容 下関石炭港河辺
1937年03月14日 87人 下関海軍医院後堤および怡和埠頭で収容 下関海軍医院後堤
1937年04月27日 385人 (※記録無し) 下関石炭港空地
1937年04月29日 102人 (※記録無し) 下関兵站処河辺
1937年05月01日 518人 兵站処河辺で収容 下関石榴園
1937年05月18日 65人 河辺の水上で収容 下関河辺
1937年05月31日 74人 下関石炭港河辺で収容 下関石炭港
合計 16,123人
1937年04月27日 385人 (※記録無し) 下関石炭港空地
1937年04月29日 102人 (※記録無し) 下関兵站処河辺
1937年05月01日 518人 兵站処河辺で収容 下関石榴園
1937年05月18日 65人 河辺の水上で収容 下関河辺
1937年05月31日 74人 下関石炭港河辺で収容 下関石炭港
合計 16,123人
(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)
(私見)上記のように埋葬した場所が特定されており、然も計16123人の遺体をこの狭いエリアに埋めたのなら、今、発掘したら簡単に見つかるはずです。その作業を何故にしないのか? 発掘しても何も出てこないのを分かっているから、発掘作業をしないのではないのか。
更に言うと、下の映像は、下関周辺の揚子江(長江)沿岸である。
と言う事は、この時、当然に大量の遺骨が出てくるはずだが、その記録は一切ない。と言う事は、この周辺に16123人の死骸を埋めたという記録そのものが捏造されたものであり、ひいては、紅卍字会の記録は信ぴょう性が無いということである。
(参照まで)
下記の埋葬記録があるが、何れも遺骨発掘作業は行われていない。
----- 各埋葬活動団体による埋葬遺体総数 -----
埋葬団体 活動期間 埋葬遺体数
紅卍字会南京分会 1937年12月22日~1938年10月30日 43,125体
南京市崇善堂 1937年12月~1938年5月1日 112,267体
南京市衛生局 1938年1月~1938年12月 9,317体
紅十字会南京分会 1937年12月~1938年5月末 22,371体
合計 187,080体
(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)
埋葬団体 活動期間 埋葬遺体数
紅卍字会南京分会 1937年12月22日~1938年10月30日 43,125体
南京市崇善堂 1937年12月~1938年5月1日 112,267体
南京市衛生局 1938年1月~1938年12月 9,317体
紅十字会南京分会 1937年12月~1938年5月末 22,371体
合計 187,080体
(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)
☆
----- 『紅卍字会南京分会』および『南京市崇善堂』による埋葬遺体総数 -----
埋葬団体 南京城内埋葬数 南京城外埋葬数 合計
紅卍字会南京分会 1,795体 41,330体 43,125体
南京市崇善堂 7,549体 104,718体 112,267体
合計 9,344体 146,046体 155,392体
紅卍字会南京分会 1,795体 41,330体 43,125体
南京市崇善堂 7,549体 104,718体 112,267体
合計 9,344体 146,046体 155,392体
(※『南京事件資料集 中国関係資料編』から抜粋)
以下の記事は、結構分かり易いので転載しました。
(註)財訊 (投資雑誌)
1937年に南京で大虐殺が発生した当時、圧倒的多数の日本人はその存在を知らず、1945年の東京裁判の時に初めて知る人がほとんどだった。
東京裁判が行われたのは、1945年ではなく、1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけてだ。
財訊の記事は、最初から間違っており、その出鱈目ぶりを現わしている。
東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」によれば、第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が開廷した「東京裁判」に備え、支那国民政府は1945年11月7日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、支那人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。
ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や虐殺を「否認する者」までいたという。
その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、新規に採用できたのは僅か4件だった。
南京の大残虐事件の聞き取り調査を受けた市民のなかには、「冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者」がいた。
また、そんなものはなかったと「否認する者」すらいたと報告していた。
>事件が発生したとき、中国政府が発表した情報は、日本軍第6師団が23万人を殺害、16師団が14万人を殺害、その他の部隊が6万人を殺害し、合計で43万人の犠牲者が出たというものだった。
43万人に増えた!(大爆笑)
しかし、「事件が発生したとき、中国政府が発表した情報」などというものはなく、南京戦当時に支那政府は外国人を相手に記者会見を何百回も開いたが、一度たりとも南京での虐殺について述べたことはなかった。
支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝したが、1回も南京で虐殺があったと言わなかったのだ!
財訊の記事は、何を根拠に述べているのか皆目見当がつかない。
さて、かつて、支那政府は、当時の国民党が戦後、多大の苦労をしてようやく集めた11件の証言によって「19万人が集団殺戮された」と主張していた。
しかし、その計算の仕方も杜撰極まりなかった。
しかも、これら11件の証言は、南京戦(1937年~1938年)から8年も経った後に集められたものであり、反対尋問も受けていない。
その内容も合理性を著しく欠く。
なぜならば、これらの証言を事実とすれば、南京陥落直後の12月14日から18日までのたった5日間に、一日平均3万8千人もの支那人が、約1600人の日本軍歩兵第七連帯第一、第二大隊(その多くは治安維持や警備を担当していた)の手によって安全区及びその付近において殺害され、19万もの死体はすべて石油などで焼かれて痕跡をとどめなかったことになるからだ。
では、それら11件の証言はどのような内容だったのか?
〈起訴状〉にその内の1件、「魯甦」の証言に基づいて次のように書かれている。
日本軍は十二月十八日、南京城北の草鞋狭で捕虜と老若男女の避難民を含めた五万七千余人を一ヵ所に集めて、まず機関銃で掃射し、さらに生きている人を銃剣で刺殺し、その上にガソリンをまいて焼いた。
おなじような大規模な虐殺は南京陥落後の一週間のうち数件おこなわれた。
東京裁判にも証言を提出した「魯甦」によると、日本軍は、近郊の村に包囲・拘禁していた五万七千四百十八名もの難民と兵士を十二月十六日夜、ワイヤーロープで二人ずつ括り、四列に並べて下関・草鞋峡まで追い立て、機関銃で掃射しつくした後、さらに銃剣でやたらめったら突き刺し、最後に石油をかけ、火をつけて焼き、残った人骨をことごとく揚子江の中に投げ入れた。
この一部始終を、南京城内の「市街戦」に際して「砲弾」を受け「腿」に負傷し上元門大芽洞に避難した証言者が「目の前で」目撃したという。
この〈証人〉が法廷に出廷していたならば当然、次のような【反対尋問】を受けただろう。
一、証人は闇夜の中でいったいどうやって五万七千四百十八名もの犠牲者を一桁まで正確に数えることができたのか。
二、日本兵が要所を固めている城内から城外の下関(シャーカン)までの道を、証人はどのようにして通って、殺害現場を目撃できる場所に行けたのか。
三、六万人近い中国人をワイヤーロープで縛り上げるのに日本兵は何人くらいおり、どれくらいの時間を要したか。中国人はおとなしく縛られたのか。
四、六万人もの中国人を殺害現場まで押送するのに、警護の日本兵は何人いたのか。
更に、数時間にわたる機銃掃射の音が夜間に下関で鳴り響けば、安全区にいた安全区委員会のメンバーなど誰かが気づいたはずだが、他に傍証は存在するのか。
この疑問に、本〈証人〉を採用した告発側は、答えねばならない(安全区委員会の記録には、この時期に日本軍によって殺された中国人の数は十四人と記録されている)。
こうした【反対尋問】を想定すれば、この証言に証拠としての立証能力を認めるのはほとんど不可能だ。
中国側が懸命に集めて、ようやく採用した証言でさえ、かくもいい加減なのである。ほかも推して知るべしであろう。「十九万人殺害」の根拠たる中国側証言に【証明力】はもとより【証拠能力】すらない。
『再審「南京大虐殺」―世界に訴える日本の冤罪 The Alleged 'Nanking Massacre' Japan's rebuttal to China's forged claims』竹本忠雄・大原康男著より
(註)
東京裁判での「南京大虐殺」は、その証拠は全て「伝聞(ヒア・セイ)」で、実際に直接目撃した証人は、米国人宣教師のマギー牧師のみ。それも、憲兵に制止の声をかけられたにもかかわらず、逃げたために撃たれた、というものしかなかった。(注)憲兵の発砲は正当行為。
(参考)
捏造された歴史を叫び続ける醜態
2012/1/18(水)
2012/1/18(水)
戦前のヨーロッパに在住していたユダヤ人は650万人(④)
その9割の600万人(⑧)をナチスが殺したとすればどうなる?
第二次世界大戦前の世界のユダヤ人は 1659万人(①)
戦後の世界のユダヤ人は、1500万人~1800万人(②)
ヨーロッパの650万人(④)のユダヤ人のうち、600万人(⑧)が殺されたら、戦後の世界のユダヤ人は1000万人に減少していなければ勘定が合わない。(①-⑧=1059万人)
然し、戦前と戦後のユダヤ人の人口には、大きな変化は見受けられない。(戦前1659万人①⇔戦後1500万人~1800万人②)
その9割の600万人(⑧)をナチスが殺したとすればどうなる?
第二次世界大戦前の世界のユダヤ人は 1659万人(①)
戦後の世界のユダヤ人は、1500万人~1800万人(②)
ヨーロッパの650万人(④)のユダヤ人のうち、600万人(⑧)が殺されたら、戦後の世界のユダヤ人は1000万人に減少していなければ勘定が合わない。(①-⑧=1059万人)
然し、戦前と戦後のユダヤ人の人口には、大きな変化は見受けられない。(戦前1659万人①⇔戦後1500万人~1800万人②)