フランシスコ・ザビエルのボヤキ


一つの課題で記事を書こうとし、確認の為に色々検索すると、新たな問題や疑問点に遭遇する。

更にそのことを追求して検索していくと多方面に広がり、際限がなくなり、一日24時間があっという間に過ぎてしまう・・・・・。

そういう訳で、その探索の過程で寄り道した箇所の一部を記事にし、以下に掲載します。



■寄り道その1

● バイブル(聖書)では、神と悪魔では、どちらがより多くの人を殺したか?

回答は下記のグラフで、圧倒的に神が多くの人を殺している。

Who killed more people in the Bible?
イメージ 1
殺した人たちの内訳は、下記のURLで。

Beyong God's penchant for random slaughter and ethnic cleansing, its also worth taking the attitudes of this thing to trial.



本当は、誰もが中学時代に習ったイエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエルと秀吉のことを検索したけど、ザビエルで途中休息。

ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、日本を去った後のザビエルのぼやき。

以下のユーチューブと記事に関しては、異論を唱える人もいるそうですが、私が検索した外国の文献の中に、同様の内容の記事を見つけたのですが、そのときチェックし忘れてしまいました。

但し、このことを裏付けるものとしての記事はありましたし、芥川龍之介が面白い随筆を書いていましたので、その一部を掲載します。

尚、本来のフランシスコ・ザビエルと秀吉に関する記事は、後日、掲載します。



■寄り道その2

ー思わずニヤリとしてしまいますー

(; ・`ω・´) ザビエルも困った... 「キリスト教」の矛盾を突く日本人


(このユーチューブの原本)
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人

 日本の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。

それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。

そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。

 つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。

元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。

「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」

 ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。

「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。

当時の中国にも、韓国にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。


 集団原理の中で生きてきた日本人にとって、魂の救済という答えは個人課題ではなく先祖から子孫に繋がっていくみんなの課題であったはず。

「信じるものは救われる」=「信じない者は地獄行き」といった、答えを個人の観念のみに帰結させてしまうキリスト教の欺瞞に、当時の日本人は本能的に気づき、ザビエルが答えに窮するような質問をぶつけたのではないでしょうか。


この他にも、『もし神様が天地万物を造ったというなら、なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)』などと質問され答えに窮していたようです。

ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、日本を去った後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で。「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」と正直に告白しています。



《1610年頃、イエスズ会の宣教師が日本で苦労した理由は、日本人の『和』。キリスト教に於ける神の絶対主義には無頓着で、家族や隣人関係を重視する》

Consequently we can say that as for Japanese, one of the most important things is harmony;
n Japanese, 'Wa.'” The Japanese, said Okuyama, “are afraid of disturbing human relationships of their families or neighborhood even though they know Christianity is best.” Chinese and South Koreans, by contrast, “make more of truth or principle than human relationships.”
His sullen response to a Spanish missionary's evangelizing, circa 1610, was, “The Japanese don't care whether God exists or not.”
Western Judeo-Christian civilization was built on God
The West is absolutist, its God embodying absolute power, absolute righteousness, absolute wisdom, absolute truth. Nothing like that exists in Japan.


芥川龍之介の言う大自然の全てを敬う日本の800の神々とカソリックとの違い》

『神神の微笑』 芥川龍之介 (大正十年十二月)
(↓全文 青空文庫

(この随筆の中の一部を以下に抜粋)

オルガンティノ(宣教師)は反省した。

「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面(こうめん)の小人(こびと)よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。

のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳(そび)えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? 

が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市(まち)へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。

これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那(しな)でも、沙室(シャム)でも、印度(インド)でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。

自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」

オルガンティノは吐息(といき)をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔(こけ)に落ちた、仄白(ほのじろ)い桜の花を捉とらえた。

桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立(こだち)の間あいだを見つめた。そこには四五本の棕櫚(しゅろ)の中に、枝を垂らした糸桜(いとざくら)が一本、夢のように花を煙らせていた。