日本の精神文化の基調に茶道がある


『武士道精神』の記事を書いているのですが、『武士道の精神』が日本全体に浸透される前に『茶道』が秀吉の時代に構築され、その精神と作法が徳川300年の平和と繁栄を支え、日本独自の文化を開花させた一つとも言えますし、『茶道』は『武士道』との相関関係にあるとも言えますね。

無論、徳川時代以降の明治・大正・昭和時代も然り。今の平成時代も、この精神を破壊しようとする輩がいるものの、基本的には日本を支えてきていますね。

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日本の食事のあいさつには、2つの素晴らしい言葉がありますね。
これも『茶道』からきているのでしょうか。  
   
1つは「いただきます」
 
「頂きます」とは、「私の命のために動植物の命を頂きます」の意味から。

古くから人は自然の恵みをもらって生きてきました。自然の恵みとは、言い換えれ ば、数々の動植物の生命をもらうこと。

これらの行為は生きとしいけるものすべてに共通の行為。いのちがつながり合ってみな生きている(生かされている)のです。
 
「多くの生き物を犠牲にして生きている」こと、偉大な自然への感謝の気持ちを表したものです。

(注) 「いただきます」は、子供に対して命の尊さを最初に教える大切な言葉。  
   
もう1つは「ごちそうさま」
 
「ご馳走様」は「馳走になりました」のことで、「馳」、「走」ともに「はしる」の意味。  

昔は客人を迎えるのに走り回って獲物をとってきてもてなしましたが、そんな命がけの働きに客人が「有難う」と心からの感謝の気持ちを表したものです。

(注) 「ごちそうさま」は、感謝の気持ちを子供達に教える為の大切な言葉。



さて本題

以下は、筒井教授の台湾での演題『近代日本の精神に学ぶ』の講演録から『茶道の精神』の箇所のみを抜粋したものです。

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筒井正夫
Masao Tsutsui
滋賀大学 経済学部 / 教授
[講演日時] 2012.11.0[1 木]
台湾国立台中科技大学 言語学部 日本研究センター


茶道の精神
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ここで、近世・近代を通じて日本精神の根幹を形成したものとして岡倉天心が『茶の本』に著して世界に表明した茶道の精神についても触れておきましょう。

ここでは、天心の思想をそのまま敷衍(ふえん)するのではなく、私なりの茶道のとらえ方について述べてみたいと思います。

茶道を考える際に重要なことは、それが江戸時代のすぐ前の戦国時代に完成されたという点にあると思われます。

(注)敷衍(ふえん)ー 詳しく説明すること。

戦国時代は、下剋上と言われるように前時代の支配勢力である荘園領主対新興勢力である在地領主の対立、在地領主層同士の覇権争い、さらに自治村落として力をつけてきた村落同士の争い等が複雑に絡み合って絶え間ない戦乱の世を現出しました。

しかもそれらは鉄器の開発が農耕生産や武力の向上、築城技術の向上をもたらして、新田や鉱山の開発等による森林の乱伐が進み、自然環境が破壊されて洪水被害が頻発した時期でもありました。また戦乱によって国土・人命そして人間が作り上げてきた多くの器物も破壊されました。

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こうした戦乱を収めるため、太閤検地と刀狩、そして「秀吉平和令」と呼ばれる平和構築策が施行されますが、親・兄弟、近隣住民が相分かれて争った人心の荒廃を修復し、狭い土地で長年にわたって良好な人間関係を維持できるように回復させ、さらに自然を復興して敬い、愛護し、器物を大事にして生活を潤いあるものとするために生み出されたものこそ日本独自の総合芸術である茶道であったと言えるでしょう。

茶道を大成した千利休は個人的確執から秀吉によって切腹させられますが、茶道は江戸幕府よって、社会の教養・道徳・規範・儀礼を総べる基本とされ、各大名や武士が修めるべき基本的な教養として重視され、町人や商人、豪農層にも普及していきました。

江戸時代が260年という世界に類を見ない平和な世を築き、様々な美を生み、また日常生活を豊かにする美しい日用品を特産物として数多く生み出していった根底には、茶道の精神が上は大名から下は農工商の庶民に至るまで浸透していったことに一因があると、私には思われてなりません。

茶道は一碗の茶のもてなしという最も基本的な主客の関係を基本として、「人と人との和」「人と器物との和」「人と自然との和」を極め、戦国時代を乗り越えて平和で美しい日常生活を送るために考案されたものと思われます。


「人と人との和」とは、日常生活において常に他者を思いやり、感謝の心を忘れず、互いの相互尊敬によって和を保つための方途を日常の立居振舞を通して身につけることです。

「人と器物との和」とは、日常に用いる生活用具・食器、建造物等に対してそれらを単なる物質ととらえず、心をこめて作られた用の美を備えた器物ととらえ、物心一如の心でそれらを大事に用い、鑑賞することで日常の中に美を取り入れた生活を実現することです。

さらに床の間の軸に掛けられた絵画・詩歌・書を鑑賞し、絵心と詩心を日常の中で味わえる豊かな感性を養うことを目的としています。

「人と自然との和」とは、茶室に至る簡素で清潔な庭を愛で、花器に設えられた四季折々の野の花の命を鑑賞し、心の糧とすることで自然の美を日常生活に取り入れることを意味します。

私たちは、どんなにGNPが増大しても、拝金主義がはびこり、貧富の差が拡大して対立が激化し、他人を競争者として蹴落とす人心の荒廃がもたらされては何にもなりません。

また物質的生産力が上がったとしても、その製品の質が人間の感性を貶め、美しさと無縁で心の通わないものであったなら物質の増産は心の豊かさの向上にはつながらないでしょう。

またいくら環境破壊を戒めてCO2を減らしても、自然そのものが生活から遠ざかり、自然と交わってその魅力や効用を理解し楽しむすべを失ってしまったら何のための環境保全かわからなくなります。

幕末から明治期にかけて日本にやってきた多くの外国人たちは、本当に普通の日本人たちの暮らしが貧しくともにこやかで幸福に満ち、実に清潔で、まるで美術品のような器物に囲まれ、心根は細やかで思いやりのサービスに富んでいることに瞠目しています。

茶道は、明治期に入り大名の庇護を失って一時衰退の危機に瀕しますが、財閥や有力実業家や政府要人、知識人たちが新たな茶道の担い手となってその発展に寄与しました。

戦後は、西洋文化が席巻するなかで茶道は女性のたしなみのような位置に後退している感がありますが、それでも日本のメーカーが作る製品には実に細やかな利用者のための心づかいが見られ、また日本のサービス業は、旅館からデパート、新幹線や駅の小さな売店に至るまで器物と人を大事にした「おもてなしの心」に満ち溢れています。

日本も戦後高度経済成長の過程で自然破壊が進み公害列島と化した時期がありましたが、現在では日本の高度な技術が環境汚染を制御するとともに自然の中に神を見る、人間の心を見る日本人の精神がもう一度見直されつつあります。

今一度、茶道に込められた「人と人」、「人と器物」、「人と自然」との和を重んじる精神とそれを日常の中で感得するための素晴らしい方途を学び直す必要があるように思われます。

以上、近代日本の精神について縷々(るる)述べてまいりましたが、最後に、日本がいわゆる植民地として統治した地域に関しても一言触れておきましょう。

(注)縷々(るる)ー 細々と話すさま。

日本は、基本的には上に述べたような精神をそのまま持ち込んで、日本と同じような近代社会の建設を膨大な人的・物的資源を投入して実践していったものと判断できます。

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それは、欧米列強が、植民地の文明化や近代化をほとんど行わず、原材料や資源、作物等を一方的に搾取したやり方とは根本的に異なるもので、近代教育を初等教育から高等教育まで実施し、近代工業や農業を振興し、鉄道・道路・港湾・ダム等のインフラを整備し、病院や衛生施設を建設し、法に則った近代行政を施行して、日本と同等の近代社会の建設を推し進めたのです。

しかし、このことは逆に特にその初期の段階において大きな軋轢を生じさせたことも想像に難くありません。

なぜなら日本でさえ文明開化と呼ばれた急速な近代化政策の遂行は、長年親しんだ江戸時代以来の風俗・慣習・社会生活とぶつかって時にそれらを破壊し、民衆に大きな痛みを与え、全国的に抵抗運動が沸き起こったからです。

まして異国の地で、他民族の指導のもとで近代化政策が全般的に推進された場合には、大きな抵抗や痛みが生じたことは言うまでもないことでしょう。

らに、この近代化は、同時に日本化を伴ったことです。近代化された日本の風俗や慣習・制度がもたらされたわけですから、固有の伝統的な習慣・文化との間に大きな軋轢が生じ、それがしばしば激しい抵抗となって現れたことと思います。

私は、そうした厳しい環境の中で、台湾では日本の為政者や指導者たちが献身的な近代化への努力を惜しまず、それに台湾の方たちが彼我の文化の違いを乗り越えてよく応え、実に立派な近代社会を建設されたことに改めて満腔の敬意を表するものであります。

           (以上で『茶道の精神』抜粋おわり)


(注)掲載されている画像は借用したものです。